年が明けてから、最悪としか言いようのない悪夢が少しづつ少しづつ現実の世界を侵食し、毎日暗いニュースにうなだれることが多かったように思います。ですが徐々に、明るい光も見えてきているようで、落ち込んでいた気持ちを持ち直しつつある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 私も、この期間なかなか新しいことにチャレンジするとご報告するような前向きな気持ちになれなかったのですが、ちょとだけですが明日への希望が持てる今日この頃、ここでこれからの私の新しい活動について皆様にご報告させていただきたいと思います。

 

 2017年4月、東京大学法学政治学研究科というところの博士課程に入学しました。博士課程というのは、勉強よりも研究の意味合いが強いところです。取らなくてはいけない単位は、東京大学の法学部生だった十数年前よりもずっと少ないのですが、代わりに、論文を書かなくてはいけません。この論文が、本当に本当に大変でした。昨年の今頃は、自宅で図書館で新幹線の中で、書いて書いて書いて…… 昨日、論文を書きながら私って天才じゃないかと思い、今日、それを読み返して、こんな馬鹿なら生きていたくないと思い、ジェットコースターのような日々でした。

 今までさんざん勉強をしてきましたが、博士論文はそれまでの比ではなくつらかったので、何度もあきらめかけましたが、教授、家族や友人に支えられて、昨年の11月になんとか博士論文を提出することができました。そして、今年の1月、教授陣から口頭で論文について質問を受ける口頭試問なる試練を経て、3月、晴れて、博士号を取得することができました。

 コロナの影響で、卒業式はありませんでしたが、あわただしく受け取った包み一式を、帰ってから開けてみると、博士号の学位記の他に、特別優秀賞の賞状がありました。「自立した研究者としての高度な研究能力を示すにとどまらず学会の発展に大きく貢献する優れた博士論文」との文字を目にしたとき、嬉しくて涙が流れてしまいました。

 論文を出せてよかった。こんなヘンテコなものは誰にも読ませるわけにはいかないから、墓場まで持っていこうと、何度も思ったけれど、それでもなんでも、とりあえず、提出して本当に良かったです。ご指導いただいた教授、議論に付き合ってくれた友人、仕事を調整してくれた仕事関係者の方、気分のアップダウンが激しい私を不気味そうに見ながら放置してくれた家族に感謝です。

 

 そして、この4月から信州大学先鋭領域融合研究群社会基盤研究所の特任准教授に就任しました。念願のアカデミックへの途に一歩踏み出せたのかなと、ワクワクしています。

 私の博士論文のタイトルは『合衆国における親子関係の決定――婚姻による推定、血縁の証拠又は養子縁組以外の可能性――』です。

 ふむ? 何を言っているのか、よく分かりませんか?

 要するに、私は「親とは何か」という問いに、法律の観点から挑んで、より普遍的な答えを手にしたいという野望を持っています。

 そんなの一冊の本を書くまでもないじゃんと思います?

 決まってるじゃん、血がつながった男女が、お父さんとお母さんなんだよと思います?

 そうですよね。でも、そうでもないんです。

 

1 血縁か? 婚姻か?

 血の繋がり、血縁という事実を重視する考え方は、確かに法律学の分野にも根強いものがあります。しかし、民法は、決して血縁のみで親を決めているわけではありません。民法は両親の結婚をとても重視しています。両親が結婚していなければ、一旦、自らの子と認知しても、血縁がないことを理由に、後から認知を引っくり返すことができます。ところが、結婚している間に妻が身ごもった子どもについては、そう簡単に父子関係を否定することはできません。夫は妻が身ごもった子どもを自分の子どもではないかもしれないと疑ったなら、1年以内に裁判所に訴えを起こす必要があります。その期間を過ぎてしまえば、たとえ、DNA鑑定により夫と子どもとの間に血縁がないと後から分かっても、法律上は親子のまま。父子関係を変えることはできません。

 親子関係は血縁で決めるべきと民法が考えていたのなら、いつでもだれでも、DNA鑑定の結果によって、親子関係を引っくり返せるほうが好都合です。ですが、そうはないってない。むしろ、結婚している間に身ごもった子どもについては、血縁関係を争うことができる期間を、1年間と非常に短く制限しているのです。それはどうしてなのでしょうか? これは、両親の結婚という安定した環境の中で、誰も父子関係に疑問をさしはさむことなく、子どもが安心して育まれていくことを、法律が望んでいるようにも見えるわけです。

 親子の血縁か? 両親の結婚か?

 結婚した両親と血の繋がった子どもならば、何の迷いもないかもしれない。でも、結婚している両親と暮らしている子どもが、実は、夫以外の男性と血がつながっている場合には?

 

2 親となる意思

 そして、問題はますます複雑になっていきます。例えば、第三者から精子提供を受けて子どもが生まれるケース。日本では、慶応大学病院が担ってきましたが、男性不妊などの事案で、医学部生などがドナーとして、カップルの女性に精子提供をして、妊娠・出産することがあります。この場合には、子どもの血縁の父は精子ドナー。それなのに、カップルの男性が法律上の父となるとしたら、その根拠はなんでしょうか?

 不妊治療の場合には、治療の過程で、書面による契約を作成する場合が多いものです。「精子ドナーは親とならない。子どもに対するすべての責任と権利は、依頼者カップルにある」という合意があったとして、契約上に表示された意思ゆえに、精子ドナーではなく、精子提供に同意した男性を子どもの親とする考え方があります。

 

3 親としての機能

 さらに、アメリカでは、女性の同性カップルによる子育てが増加しました。女性の同性カップルの場合、自分たちのよき理解者である知り合いから精子提供を受けて、自宅で人工授精するケースもかなりあったようです。体外受精というのは病院でなければできない大ごとですが、人工授精自体は、シリンジさえあれば、医療関係者じゃなくても、さほど難しくなくできるという話もあります。

 こういうときには、お互いの間に書面の契約がなかったりします。さらに、養子縁組の手続きは面倒だし、まいっかと放っておくこともある。カップルがうまくいっている間はなんの問題もない。数年経って、2人の関係が崩れ始めたときに気づくわけです。カップルの一方は、子どもを妊娠・出産した完全なる母親。他方は、法律上は「赤の他人」になってしまう。子どもは、私のことを「マミー」と呼び、パートナーのことを「ママ」と呼び、私たちは2人とも親として子育てを均等に分担して、子どもとも同じくらい強い絆がある。なのに、彼女だけが母親で、私が赤の他人。彼女が認めない限り、子どもとひとめも会えないなんておかしい。

 1990年代から、アメリカではこのような問題提起がなされるようになり、そこから、子どもと継続的な関係を有している者を親と認める考え方につながっていきました。つまり、親として実際に機能をはたしているものを親とする考え方です。

 

 今まで出てきたキーワードを並べてみます。

 【血縁】【結婚】【意思】【機能】

「親とは何か」という一見シンプルな質問は、実は、複雑な要素に分解されます。子どもと血縁のある人、子どもを産んだ女性と結婚している人、親となる意思がある人、実際に親として機能している人――すべての要素が同じ人に帰着すれば問題がないのかもしれませんが、そうじゃない場合には、誰を親とするべきかという争いが生まれます。

 私の研究は、すべての理論を調査して、それをもう一段深く掘り下げて、一見バラバラに見える各要素の中に共通する「親子の条件」を見つけることができないかというものです。それが「親とは何か」という問いに対する、より普遍的な答えになるのではないかと思うからです。

 今のところ、「父とは何か」問題と「母と何か」問題に分けて、まずは「父」から取り組んでいます。同性カップルも含めるので「第一の親の理論」「第二の親の理論」と、仮に名付けたところです。

 

「親とは何か」

 

 これは私にとって、長年、とても重要な問題でした。親から大きな影響を受けて、いろいろなものを授けられて、返しきれない分は自分の子どもに与えていかなくてはいけないという義務感を感じながら、子どもを持てない焦燥感も同時にありました。

 アカデミックの観点から「親とは何か」を徹底的に追求していくことが、私の心の中にわだかまる義務感と焦燥感になにかの答えを与えてくれるかもしれないと、ひそかに期待しています。どう考えても、まわりくどいやり方ですが……

 ということで、新しい道に一歩踏み出すことを、ここでご報告させていただきました。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

これからもブログやSNSを通じて私の活動などを皆様にお知らせしていくつもりです。

どうかお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。