さて、”grab the women by the p****”という、トランプの「ロッカールーム・トーク」が、アメリカで物議をかもした。日本では女子部員の甲子園練習参加を容認するかという議論も沸き起こっている(http://www.asahi.com/articles/ASJCQ4Q7GJCQPTQP004.html)
そこで、今回は「アスリートにおける女性の立ち位置×ロッカールーム・トーク」という切り口で、この話題をお届けしたい。
なんと、ハーバードの男子サッカーチームが、学内の決定によって、今シーズンの今後の公式戦には出場停止となり、今年はアイヴィー・リーグのチャンピオンシップに出場できなくなるというニュースである。
ことの発端は2012年、男子サッカー部の仲間内で出回った「スカウティング・レポート」とやらにある。このレポートの中で、彼らは女子サッカー部に入った6人の新人女子部員を「評価」した。その評価は、女子選手たちのサッカーの実力ではなく、容姿やセックスアピールに関するものであり、さらには露骨な性表現も含まれていたというのである。
1. サッカー部の伝統:新人女子部員の「評価」
どうやら、これはハーバードの男子サッカー部の伝統らしい。
1年に1度、女子サッカーチームに入ってきた新人女子部員を、男子サッカーチームが「評価」するのだ。新人女性部員に関する9ページにも及ぶ詳細な「レポート」は、Facebookやインターネットから取得した彼女たちの写真までふんだんに使うという「気合の入った」もので、e-mailによって男子サッカー部に共有された。
ハーバード内の報道によれば、このレポートは露骨な性表現も多く含んだという。
ある選手については「彼女はSもMもイケそうだ」と書かれた。
さらに、選手たちのフィールド上でのポジションの他に「性的なポジション」についても、レポート内には記載があった。たとえば、「彼女は経験がなさそうだから、うーん、『尼さん』でいっか」とか、「ドギー・スタイル」とか「カウガール」とか、各選手にポジションが振られていたのである。
さらに、レポートは女子部員の容姿にも言及する。
「歯と歯茎の比率が1:1ってとこかな。『グッキー』ってあだ名がいいかも。評価6点」
「超強そう、背高い、男みたい。うーん、いいとこが見つからないな。評価3点」
といった具合である。
トランプのロッカールーム報道と、スタンフォードなどの名門大学で、性的暴行が問題となる中で、各大学は構内でのセクシャル・ハラスメントに対する取組みを強化した。そのような流れの中で、4年前のこの「スカウティング・レポート」が問題となったのである。
ハーバードの男子サッカーチームは、学内の決定によって、今シーズンの残りの公式試合について出場停止処分を受けた。
2. ロッカールーム・トークは断固処分すべきか?
この処分が正しいかどうかを評価するのは、少し難しいように思う。
確かに、この「スカウティング・レポート」は、評価される対象に対する思いやりが決定的に欠けている。女性全体に対する敬意も欠けている。こうやって男子サッカー部内で勝手に評価されて、さらされて、傷ついた女性たちのことを考えると、とても許しがたいとは思う。
だけれども、こういう「女性を性的対象と見てはいけない」的な議論は、いったいどこまで拡大されていくのだろう。
1)こういう露骨な性表現というのは、オフィシャルな場からはほぼ消えつつある。たとえば、学校の授業とか会社の会議とか、そういう場所でのセクシャルハラスメントというのは、アメリカではとっくにアウトだろうし、日本でもそうなりつつある。
2)次に、トランプ氏の発言を経て「ロッカールーム」に関する切り込みも始まっている。たとえば、その人物が大統領候補のようなオフィシャルな人物である場合、または、今回のように大学のサッカー部内のグループで共有されている場合には、そこでも、女の子をランク付けするなんてことは厳罰に処せられるようになってきた。
3)ところで、推測するに、おそらく日本でもアメリカでも、男の子たち(男の子に限らないかもしれないが)というのは、数人集まれば「こないだの合コンで誰が可愛かった」という話をし、その中に胸や脚のセックスアピールに関する表現というのも、少なからず含まれるのだろうという気がする。今後は、こういうものも禁止していくのだろうか。
4)「女性を性的対象として評価する」というのは、ある程度、男性の本能の中にプログラミングされているものなのだろうと思うが、この表現を禁止するのか、あるいはそういう発想自体を禁止するのか。ただ、内心の精神活動というのはあくまで自由なものでなければならないのだろうか。
女性を性の対象と見るような表現を、オフィシャルな場からも、ロッカールームからも、いや、もっとくだけた友達同士の会話や個人の表現からすら取り除いて、すっかりクリーンにしてしまえば、女性は男性と平等になるのだろうか。
なんか、全然、そんな気がしない(笑)。
「とにかく、女性を性の対象として搾取するのはけしからん、ポルノと売春はその象徴である。即刻、全世界から排除すべし」
という強い主張をしたのはフェミニストのマッキノンとドゥワーキンだが、いまやこれを支持する人は、女性ですら少ない。
「女性を性の対象とするのを一切やめろ」という合言葉は、なんだか、とっても現実味がないのである。
3. ありとあらゆる「評価」をオープンにすべき?
それなら、どうすればいいのか?
答えを出すのは難しいけれども、現時点では、すべての評価をオープンにしていくのも一つの手ではないだろうかと思う。
「ミスコンを止めろと騒がれた時期があったが、結局、ミスコンはなくならかった。その代わりジュノンボーイのような逆バージョンが出てきた」
と言った人がいたけれど、女性選手の技能ももっと評価されていいし、男性選手の容姿もさらに評価されてしかるべきなのだろう。
建前を押し付けて、本音を押し殺すような方向というのは、賢い方法ではないのではないかという気がする。
アメリカでは「すべてのマイノリティを差別してはいけない」というポリティカル・コレクトネスの建前が強くなりすぎて、差別主義的な本音を圧倒したのが昨今の状況だった。本音と建前のあまりに大きな開きに疲弊した、かの国は、そこに切り込んだトランプ氏をリーダーに選んだのだ。
まあ、男女、性的マイノリティを含めてすべての性を尊重するという教育によって、本音に働きかけていくことも大事ですけどね、という言葉で締めたくなる私自身が、ポリティカル・コレクトネスに毒されているのだろうか。
あと、ポリティカル・コレクトネスついでにもう一つ断っておくと、今回のブログエントリーでは、「男性は女性を性の対象とする」というヘテロセクシャルだけを念頭に置いたような内容になっているが、これは話を簡単にするためである。性的指向それだけではないことは、もちろん承知している。
ポリティカル・コレクトネスというのは、お断りが多くなって大変ですね。
写真はThe Harvard Crimsonより。