私は、オリンピックが大好きで、今年の夏もオリンピックを堪能している。
特に、リオオリンピックは異例のメダルラッシュ。史上最高であったロンドンの38を超える多くのメダルに、毎晩、楽しみでたまらない。
1. 勝者の配慮、敗者の高潔
オリンピックでは、毎日毎日、勝者が生まれ、その陰で敗者が生まれている。勝者の咆哮。敗者の号泣。勝ち方、負け方も人それぞれで、オリンピックという祭典を彩っている。
[勝者の配慮]
アトランタオリンピックが開催されたのは、私が高校生の時だった。
私の高校の体育教師は、柔道一筋の人だった。全日本柔道連盟においても、それなりの重責にあったらしい。その彼が、アトランタオリンピックの野村忠宏選手の金メダルについて、
「試合の内容は素晴らしい。しかし、勝ち方はやや残念だった」
と感想を語っていた。
金メダルが確定した瞬間、野村選手は感情を爆発させて、ガッツポーズで咆哮した。これはとても自然な感情のように思える。しかし、柔道教師は、「このとき、敗者はまだマットの上に横たわったままだった。まず手を差し伸べて、相手を助け起こす。それが柔道の精神であるはずだ」と語った。
この勝者の配慮のエピソードが、私はなぜかとても心に残っている。
[敗者の高潔]
今回のリオオリンピックでの柔道で、敗者のあらぬ光景を目にする機会があった。
12日の柔道男子100キロ超級の試合、イスラエルのオル・サッソン選手に敗れたエジプトのイスラム・エルシェハビ選手が、握手を拒否したのだ。
イスラエルの選手が握手のために差し出した手を拒否するだけではなくて、なおも握手を求めて歩み寄るイスラエル選手に対して、後ろに何歩も退いて明確に拒否。
柔道解説者も、「これはいけないですね。最後は握手と礼をしなければいけません」と言っていたけれど、見ている側にも明らかに違和感の残る光景だった。
イスラエルに対するエジプトの反感という政治的な背景があるとのこと。エルシェハビ選手は、エジプトから帰国処分を受けた。
それに対して、レスリング53㎏級の吉田沙保里選手は、負けてもなお高潔だった。
信じられないような思いのまま、マットにうずくまって号泣した彼女は、しかしその後立ち上がって、勝者であるヘレン・マロウリス選手を抱擁で祝福した。そして、翌日には、笑顔で後輩たちの金メダルを祝福していた。
オリンピックを三連覇し、世界選手権を13連覇した彼女は、負けた後の身の処し方をほとんど経験したことがなかったに違いない。それにもかかわらず、とても高潔な姿だったと思う。
試合後のインタビューで、「勝った時には負けた相手の気持ちを考えてこなかった。今回、負けた選手の気持ちを学べてよかった」という趣旨のことを、コメントされていたが、スポーツにおいても社会においても、「エリート」のあるべき姿勢なのではないかと思った。
日本中が「世代交代」なんてことを考えられない状況ではあるだろうが、どれほど強い選手でも永遠にトップレベルで活躍し続けられるわけではない。いつかは後輩たちに道を譲り、彼女たちが世界の壁に挑んでいくのを支える側に回らなくてはならない。
勝ち続けるときよりも、そのときの身の処し方の潔さに、その人の人格が表れるのではないかと思うのである。
社会において、これがうまくできない人がいかに多いことだろうか。
第一線で活躍した弁護士でも、いずれは後輩に仕事のノウハウを教え、依頼者との関係を取り結び、彼らが自分の乗り越えられなかった壁にチャレンジしていくのを応援しなければいけないはず。
それにもかかわらず、「生涯現役」という聞こえのいい言葉のもとに、後輩たちの道を遮ってしまう人たちが多いように見受けられる。
私自身も、ハーバードで学んで、日本人の可能性と自分自身の限界を学んだ。
人間に不可能はないと信じたいけれど、これから、どれほど一生懸命に勉強をしても、ネイティブと同じレベルで英語という言語を操ることはできないだろうと思う。
私の次の世代には、言語という世界の壁を軽々と超えていってほしいと思うし、そのためには潔く後輩に道を譲ることが必要だと思う。
自分にそれができるだろうか。
オリンピックの勝者、敗者それぞれのありようを楽しみながら、勝者の配慮、敗者の高潔について考えさせられることが多い今日この頃である。
写真は握手拒否の場面。ぴりぴりした雰囲気が伝わってくるでしょ?