1.         美の基準はユニバーサルなのか?

 

美の基準は、決して世界共通ではない。留学して学んだ事実のひとつである。

 

クラスメイトに中国系の女の子がいた。中国系の家系がルーツとはいえ、彼女はニュージーランドで生まれ育ち、カナダの大学に学んだ。中国の出自は、彼女のアイデンティティの一部ではあったけれど、彼女自身は白人男性と結婚し、LGBTの友人を多く持ち、非常に先進的な価値観を持った女性だった。

 

その彼女がね、こういうことを言うのはなんだが、私は彼女を「美しい人」とは位置付けていなかったのである。

いや、すごくいい子である。明るいし、気さくだし、英語を話せない人も引っ込み思案の人も輪の中に引き込んでくれる、そういう気配りのできる女性である。

 

すごく素敵な女性あることは間違いない。

だが、彼女は、日本でいうところの「美人」ではなかった。

 

日本でいうところの「美人」は、典型的には、色が白く、目が大きく、ほんのりとお化粧をしている程度とか、そういうイメージが、私にはある。

 

それに対して、彼女は色が浅黒く、目は細く、黒々とした髪を持ち、瞬くたびに重そうな付けまつげと、極太のアイラインで黒々と囲まれた目を持つ。

 

2.         西洋の美とアジアの美

 

そんな彼女が”hot”だと言われて、私ははっとした。

 

どうでもいいかもしれませんが、ここで「美」に関する英語を。

 

美しいというとbeautiful的なイメージがあったのですが、Nativeに聞くとbeautifulっていうのは大層な言葉であまり使わないそう。綺麗、可愛い、美人っていうレベルにはprettyを使うそうです。

 

以下の通りとのことでした。

Beautiful:最上級の荘厳な美しさ。普通の美人よりも上。

Hot :セクシャルな意味で、惹きつけられる。かなりの褒め言葉。

 

Pretty:日本語で言うところの、普通の美人、可愛い、綺麗。

Cute:いわゆる「カワいい!」ちょっとバカにした響きになってしまう可能性も

 

 

よく聞いてみると、日本でいうところの「美人」とアメリカでいうところの「美人」は異なる基準によるらしい。

もっと言えば、西洋にはCaucasian(いわゆる「白人」)であることは美しいという価値基準が染みついている。

 

色が白く、目が大きくという白人的な美しさを、自らの「美の基準」として取り入れたのは、意外にも、西洋か遠く離れて暮らす日本人。

逆に、Caucasianといつも一緒に暮らしているAsian Americanたちは、差別化の道をたどった。

色が浅黒く、目が細く、髪が黒いルーシー・リューのような顔が、Caucasianと対極をなす、Asian Beautyとして持てはやされるようになったということらしい。

 

それにしても、日本人の美の基準と、アメリカにおけるアジア女性の美の基準が、こうも異なるものかと驚いた。

 

3.         The Bluest Eye

 

ノーベル賞作家であるトニ・モリスンは、『青い眼が欲しい(“The Bluest Eye”)』という本を書いている。

 

ペコラという黒人少女の家庭の崩壊が、物語の主人公クラウディアという、もう一人の黒人少女の目を通して描かれる。

 

ペコラは醜い女の子だった。

 

ペコラの母はそんな彼女に対する関心を、徐々に失っていく。というのも、ペコラの母親は、白人の家にお手伝いに行くことになり、そこで料理の腕を認められるのである。その家の白人の美しい少女に肩入れするようになった母親は、実の娘である黒人の「醜いペコラ」に対する愛情を失っていくのでだ。

 

母親から関心を持たれなくなったペコラは、「美しい青い目」を手に入れれば、自分にも愛される資格が生まれるはずだと信じて、ひたすら祈るようになる。ペコラにとっては、「青い目」こそが美の象徴なのである。

 

Caucasian、いわゆる白人の基準が、いかに世の中を席巻しているかが、よく描かれた本である。

 

ペコラは醜いといわれるが、何が醜くに、何が美しいかは尺度の問題である。

黒い肌のペコラが醜くて、「青い目」が美しいというのは、Caucasianを至上とする美の基準であろう。

 

「どの子も今のままで美しいのよ」と、ペコラを抱きしめてあげるべきだったペコラの母は、しかし、Caucasianの美の基準に流されてしまったのである。わが子の絶望的なほど切実な祈りを聞き逃すほどに。

 

4.         美しいとは何か

 

Caucasianに似ていることを「美」とみなす日本人、Caucasianの対極に「美」を見出すAsian American

いずれも、西洋的な価値基準に縛られていることに変わりはない。

 

そういう画一的な「美の基準」から解き放たれて、どの子も今のままで美しいと本心から言える日がいつか来ないかなあと、ニキビまみれの「醜い女の子」で、コンプレックスの塊だった私は、心の底から思います。

 

さてさて、ハーバードの卒業式。いろいろな人種の人が集まっているけれど、どの子もみんな「美しい」でしょ?

ブログ160819