日本ではお盆の時期である。お盆のこの時期と帰国の挨拶を兼ねて、先日、私はお墓参りに行った。

祖母が亡くなったのは、昨年の5月の末だった。

照り付ける日差しの中で冷たい水を墓石にかけ、お花を飾り、お菓子をお供えする。

線香の香りが漂う中、墓石に手を合わせて祖母に呼びかけると、日本に帰ってきたことを実感する。

 

これが日本の宗教観なのだろうと思う。

そして、この宗教観は、西洋社会とは異なる感覚なのだろうと思うのである。

 

1.         モルモン教

 

お盆でお墓に手を合わせながら、私は、ケンブリッジ(ちなみに、ハーバードが所在するのは、ボストン市の隣のケンブリッジ市である。だから、これはイギリスのケンブリッジではない。)での出来事を思い出していた。

 

それは、土曜日のお昼過ぎのことだった。ぶらぶらと歩いていていた私は、人の良さそうな女性に声をかけられた。

 

「オープンハウスやっているのですけど、入りませんか?」

 

そう、ケンブリッジの私の近所には、初代大統領ワシントンも住んでたことがあるという有名なお屋敷があるのである。そうか、オープンハウスをやっているのか。せっかくの機会だからと、私はのこのこと女性の後についていった。するとすると

 

なんか、お屋敷のほうではなくて、通りを隔てた反対側のほうにいくではないか。

あれー、どこ行くの?

 

なんと、ワシントンのお屋敷と思っていたのは私の勘違いで、向かいの教会に入っていく。

あーれー?

でも、とにかく、教会の中を見られるなんていい機会だから、私は、それでも、のこのこついていく。

 

教会の中で、「モルモン教について知ってますか?」と聞かれた。

「ミット・ロムニーが信仰していることくらいしかしりません」と私。

で、「何か質問ありませんか?」って聞かれたので、死後の世界について質問した。

 

 

祖母が亡くなったのは昨年の5月以来、私は、よく祖母の夢を見る。そして、そのたびに、目を覚まして意外な気持がする。

 

「そうか、おばあちゃんはもうこの世にいないのか。」

 

そして、祖母は、今、どうしているのだろうかと考えてしまうのである。

 

人が生まれる前の世界と死後に行く世界は、きっと同じところなのだろうというのが、なんとなくの私のイメージでだった。

死んだ人は、お母さんのお腹に宿る前の、その世界に戻っていくんだろう。そして、また生まれ変わってこの世に戻ってくるんだろうと。

輪廻転生、というやつですね。

 

祖母は、今、どこにいるのだろうか。まだあの世にいるのだろうか。もう、生まれ変わってこの世に暮らしているのだろうか。

そう考えたところで、私ははたと立ち止まる。

 

でも、あの世って本当にあるんだろうか。生まれ変われるって保証はあるんだろうか。肉体と離れて魂があるって本当なんだろうか。肉体が滅びた時点ですべて終わりで、私たちの存在は跡形もなく消え去るんじゃないだろうか。

 

そういう考えがふいに浮かんできて、私はそれを打ち消すことができなくなった。

死んだ後、どうなるのか、そんなことは生きているうちには決してわからない。

死後の世界も、今、私たちが生きている世界と、どこかでつながっている。そう考えて、なんとなく心の安らぎを得ていたけれど、そんな確証はどこにもないではないか。

 

考え出すと、無性に怖くなった。そして、眠れなくなったのである。

 

そういう背景があったから、「何か質問ありませんか?」と尋ねる、モルモン教のミショナリーの女性を相手に、これ幸いとばかりに、死後の世界について質問しまくったわけである。

 

2.         死後の世界

 

死後の世界について、今度、詳しく説明してくれるということで、後日、また教会を尋ねた。

どうやらこういうことらしい。

肉体の死後に、私たちの魂はこの身体を離れ、Spiritual Worldというところに行く。モルモン教を信仰してた人も、信仰してなかった人もみんなそこに行く。そこで道は二手に分かれる。

 

生前にモルモン教を信仰していなかった人:モルモン教を学ぶ学校に通う。

生前に、モルモン教を信仰していた人:学校に行く必要はないので、今度は教える側に回る。

 

生前にもこれだけ勉強に苦労したのに、死後にも学校があるとは驚きである。モルモン教を学んでいた人は「飛び級」できるということなのだろうか。

 

80を超えた祖母が、Spiritual Worldで英語の授業を受けて、私と同じように四苦八苦しているところを想像すると胸が痛む。ヘブライ語とかラテン語とかだったら、もっと胸が締め付けられる。

インターナショナルなスクールで、日本語の授業も選択できますように!

 

そして、キリストが蘇って審判の日が訪れる。そこで、この世にいる人も、Spiritual Worldに暮らす死後の魂も、みんながみんないっせいに蘇り、天国に暮らすことになるらしい。ただし、この天国の門をくぐる前に入試みたいなものがあって、すべての人は三ランクに分けられるということである。

 

この三ランクは、「Celestial」「Terrestrial」「Telestial」という、天国の三つの階層に対応している。

 

Celestial: モルモン教を信仰している人や死後のSpiritual Worldでモルモン教の信仰に

        目覚めた人は、「Celestial」で神と一緒に最大限ハッピーな暮らしを送れるの

        だそう。

Terrestrial: モルモン教を信仰していないものの、生前、まじめに正直に生きた人は

        「Terrestrial」。


Telestial: まじめでも正直でもなくて、悪い奴は「Telestial」という世界で暮らすことに

        なるんだって。

 

当然のことながら、ハッピーの度合いは、

Celestial>Terrestrial>Telestial

(ご心配されている皆さんに朗報を。「Telestial」ですらこの世よりはハッピーなんですって。「信じない奴は全員地獄行き!」などという脅迫めいた教義で、信仰を迫らないところに、私は好感を持ちました!)

 

「飛び級」のシステムがあったり、入塾テストによって三クラスに分けられたり、なんか受験戦争を想起してしまいますねそんな私は、受験戦争に毒されすぎなんですかねところで、ところで、

 

「信仰が違えば、家族は一緒に暮らせないんですか?」と聞くと、ミショナリーの女性はこう答えた。

 

「家族が一緒に暮らすことを、神様は、決して妨げたりしないわ。私はモルモンだけど、私の家族はカトリックなの。私はCelestialに暮らして、家族はTerrestrialに暮らすことになると思う。私が下りていくことはできるわ。でも、一方通行だから、家族は上ってこれないけどね」とのこと。

 

3.         死後の世界に関する疑問

 

私の中の大きな疑問は二つ。

 

1) 生前に他人を顧みずに悪行の限りを尽くした人が三階層の一番下というのは分かる。けれど、生前にまじめに正直に生きた人が、モルモン教を信仰しないという一点だけで差別されて三階層の真ん中なのはどうしてなのだろう。神の愛は、それほどに狭量なのだろうか。

 

2) Spiritual Worldで、モルモン教しか教えないというのは、アンフェアではないか。仏教やヒンズー教やいろいろな教義を聴講して、違うかなと思ったものはドロップして、いいなと思ったものは残すような、大学の講義のようなシステムのほうが、フェアではないだろうか。

 

この質問をしてみたところ、

 

真実というのはひとつだけだから

 

と、とても強い口調で言われた。

 

真実はひとつだけだから、いろいろな教義を並行して習うことはできない。そして、その真実に目覚めたものと目覚めていないものの間に差がつくこと、つまり、「Celestial」と「Terrestrial」に差があるのは仕方のないことらしい。

 

ここのところの説明が、本当に熱を帯びていたのである。

つまり、私に説明してくれたミショナリーの彼女たちは、ごく普通の女の子に見えるのだけど、モルモン教こそが真実だ、そして、この教えだけが真実だと、心の奥底から確信している。

説明をする彼女の熱を帯びた口調によって、私はそう気づいた。

 

4.         信仰とは何か?

 

「信仰」とはこういうことかと、私は思った。「信じる」というのは、こういうことなのである。

そこに論理なんてないのである。「ただ、それだけが真実なんだから。それだけなんだから」というのが、唯一の答えなのである。

 

何かをこれほど強く信じるということは、すべてに対して懐疑的であることよりも、よっぽど素晴らしいことだろう。

 

実際に、モルモン教の説明をしてくれた人たちは、みんなとても好感の持てる人で、私の素朴な疑問にも可能な限り誠実に答えてくれた。

 

「審判の日に、過去に生きていた人がすべて蘇るというけど、人口密度的な問題はだいじょうぶなのでしょうか?」

っていうのも聞いてみたけど、笑ったりバカにしたり怒ったりしないで、答えを出そうとしてくれたしね。

 

5.         日本の宗教観と西洋の宗教観

 

だけれど、私にはどうしても分からない。

 

彼女たちに、「天のお父様」にお祈りを捧げるのだと習った。祖母が元気にしているかを「天のお父様」に聞くことはできる。けれども、祖母に、直接、話しかけることはできないのだと習った。

 

実家に帰ったときに、祖母の仏壇の前に手を合わせて、「帰ってきました」って報告をしちゃいけないのかな。「大変だったけど、頑張りました。見ててくれた?」って聞いちゃいけないのかな。

 

ねえ、祖母がどこかから見ていると思うと、悪いことはしちゃいけない、意地悪はしちゃいけない、ちゃんと勉強しようと思えるけれど、「天のお父様」が、私にはどうしても遠く感じられてしまうのである。

 

日本という風土で生まれ育った私は、祖先信仰が根付いていて、一神教の価値観が感覚的に分からないということなのだろうか。

つまり、具体的なものを信じる傾向にあって、抽象的な対象をイメージする能力が低いということなのだろうか。

私は抽象的な発想をする能力が弱いのだろうか。

この能力さえあれば、祖先信仰よりも一神教の信仰のほうが価値が高いと思えるものなのだろうか。

 

具体的なものというのは程度の低いもので、抽象度の高いもののほうが洗練されていて価値が高い、西洋にはこういう価値観が根付いているように思う。でも、それって本当にそうなのだろうか。

 

んーーー、私には分からない。

 

6.         風土と慣習

 

日本に帰国して、祖母の墓前に手を合わせながら、日本の宗教観が西洋よりも劣っているということは、決してないだろうと、私は思った。

 

暑い盛りに、実家のある田舎に帰り、墓前に手を合わせる。そうすると、祖先の存在をとても近くに感じることができる。

それは、論理ではうまく説明できないほど、肌に馴染んだ感覚である。

 

対照的に、オリンピックのスタートラインで、緊張が最高潮に達した西洋の選手たちが、十字を切ってネックレスに口づけをすると、それはそれでとても様になる。

彼らには、生まれた時から自然な肌に馴染んだ所作なのだろうと思えるのである。

 

宗教というのは、風土と慣習に根付いたものだろうと、強く感じる。

お盆のこの時期にとても身近に感じる祖先の存在は、ケンブリッジの空気のもとでは説得力を失うかもしれない。

逆に、一神教の論理的な、かつ、不寛容な教義は、日本のような肥沃な大地のもとでは、ややとげとげしく響くのかもしれない。

 

「真実はひとつしかない」

もしかしたら、ここに大きな問題があるのかもしれない。

死後の世界は一通りしかない。ひとつの真実を信じるならば、他はすべて否定しなければならない。

論理的に見える、この西洋的な思考は、それでいて、融通が利かずに不寛容である。

死後の世界が一通りだなんて誰が決めたのだろう。

輪廻転生という価値観と、Spiritual Worldが並び立たないと、誰が決めたのだろう。

 

いくつもの真実が、いくつもの正義が並び立ちうるという、日本的な鷹揚さは、対立を強める、この世界においてカギとなるアイディアなのではないかと思うのである。

***

 

モルモン教の説明を一通り聞き終えた後に、モルモン教徒は、お酒を飲まず、コーヒーも飲まないことを聞かされた。

「えっ、ちょっと待って、そ、そんな重大なことを一番最後に

 

とにかく、私の祖母はもっとずっと寛容。今晩は、ビールが好きだった祖母にビールをお供えして、私もお相伴に預かることにしましょう。


ブログ160814