アメリカの「男女平等」というのは、とことん、恐ろしいので、今日はその話を書いてみようと思う。

 

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ある日の教室でのことである。その日は、ネゴシェーションのクラスがあった。ネゴシェーションのクラスでは、自分なりのネゴシェーションスタイルの他に、様々なネゴシェーション・スタイルが割り当てられる。例えば、「バッド・コップ」「グッド・コップ」として、強面のネゴシェーターとそれをなだめる紳士的なネゴシェーターの役割を演じろと言われたり、「タフ・ネゴシェーター」をやってみろと言われたりするのである。

 

その役割に沿って、チーム別で、ネゴシェーションをする。ネゴシェーションの最中には、自分たちのチームが割り当てられたネゴシェーション・スタイルは、相手チームには教えてはならないというのが、ルールである。

タフ・ネゴシェーターを割り当てられた日には、「自分の主張を譲らない、嫌な奴だと思われているんだろうなぁ」と思い、心の中で手を合わせるものの、素知らぬ顔をして通さなくてはならないのである。

 

そして、ネゴシェーションが終わって、講評の段階で、それぞれが自分への指示を明らかにし、感想を言い合う仕組みである。

 

事件は、その日の講評の時間に起きた。

 

中国人の男子生徒と、彼の相方は、「タフ・ネゴシェーター」の役割を割り当てられた。

相対するチームは、一人が休んでしまい、女子生徒一人の状態。その女子生徒に対して、男子生徒二人による畳みかけるような強面の交渉。

 

講評の際に、今日の感想を聞かれた中国人の男子生徒は、こう答えた。

 

「申し訳なかった。」

 

「なぜ、申し訳ないと思ったの?」と、講師が尋ねる。

 

それに対して、中国人の男子生徒は、こう続ける。

 

「だって、相手チームは女の子一人だから」

 

ざわざわしていた教室が、一瞬でシーンと静まり返る。白人ミドルの女性教師が、ぴくりと片方の眉を吊り上げる(ニューイングランドに住む、白人ミドルの女性教師というのは、ほぼ100%の確率でフェミニストである。)

 

What do you mean? (どういう意味?)

 

棘のある声で説明を求める教師。

 

それに対して、中国人の男子生徒は繰り返す。

 

「だって、相手チームは女の子一人だから。一人の女の子に対して、二人の男子でよってたかって強面の交渉をするっていうのは、やっぱり申し訳なかったと思う」

 

その瞬間、相対していた女子生徒の顔が、後ろから見てみてもはっきり分かるくらい、真っ赤になった。

 

「つまり、あなたは、私が『女性』だという理由だけで、私への交渉態度を変えるべきだったっていうの?」

 

烈火のごとく繰り返される彼女の抗議に、中国人の男子生徒はおろおろするばかり。しかし、教室中の女子生徒はみんな中国人の男子生徒を非難の目で見る。

 

それ以後、中国人の男子生徒は、「セクシスト(性差別主義者)」というレッテルを貼られたのだった。

 

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みなさんは、どちらの意見に同調されますか?

 

「女の子には優しく」と教えられて、それが身についたアジアの男子生徒の立場か。それとも、「『女性』という理由だけで、態度を変えるなんて性差別」と教えられて、それが身についてアメリカの女子生徒の立場か。

 

私の感覚からすると、男子生徒の言っていることは十分に分かるのだけれど、アメリカの、特に東海岸では、圧倒的に女子生徒の立場が主流。

 

つまり、「女性だから」「男性だから」というステレオ・タイプに基づいて差を設けるのは、それは性差別以外の何物でもない、決してやってはいけないことと、そうなってくるのである。

 

これが、アメリカの「男女平等」である。

 

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アメリカの男女平等の基本は、男性と女性を、あたかも同じものであるかのように、扱うというもの。男性と女性の差や違いは、無視してしまうのである。

 

ひとつめ。「女性である」という理由で区別するのがいけないという裏返しとして、「女性である」ことによる優遇も最小限。

 

給与をもらったうえでの産休は法律で保証されていないし、各企業でもおそらく実行されていない。ハーバード・ロースクールのような、比較的、安定した職場ですら、産休中は無給であって、休んでもクビにならないというのが唯一の特典とのこと。

 

かつて、離婚した元妻が、元夫に経済的に依存している場合、元夫には配偶者手当の支払い義務があった。しかし、元妻の収入がいくら高かろうと、女性側には配偶者手当の支払い義務は一切なかったのである。それを、「私達にも払わせろ」と、徹底的に戦ったのがフェミニスト。全女性の立場からすると、はた迷惑な話である。

 

ふたつめ。女性側への優遇が最低限であるものの、言葉の言い回しのような、表面的な平等には、徹底的にこだわる。

 

みなさんご存知の通り、英語には、sheheの代名詞の区別があるので、たとえば、「弁護士が○○をした」「検察官が○○と言った」「警察官が○○を手に入れた」という文章があっても、途中から「弁護士」「検察官」「警察官」を代名詞で受けなくてはいけない。ついついheで受けたくなるけれど、そればかりを続けるとセクシストのそしりを受けるので、最近は、sheで受けるのが主流である。

 

ハーバードの卒業式を聞いていても、どの学部の学部長も、卒業生を紹介する際に、「彼彼女に惜しみない称賛の拍手をお願いします」という言い方はしない。判で押したように、「彼女彼に」という順番で代名詞を使うのである。

 

日本では「男女平等」と言うけれど、これを「女男平等」とすべきだという、相当どうでもいいというか、中身に関わらない議論に、延々と時を費やすであろう国、それがアメリカである。

 

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つまり、今日、何を言いたいのかというと、アメリカは、あたかも男女の違いがないかのように扱う、そして、表面的に平等に扱う、「男女平等」が徹底している。

 

これを、法律用語で「形式的平等」という。

 

それに対して、「実質的平等」という考え方がある。

 

「実質的男女平等」というのは、男女の違いがあるという前提に立って、その違いを調整したうえで、同じような機会が与えられるようにするということである。

 

こういう喩えがある。

男性しか校長にならなかった学校で、初めての女性の校長が挨拶をするとする。マイクの高さは、それまでの校長たちの平均的な高さになっており、彼女には届かない。そのときに、

「背伸びして頑張れ」というのが、「形式的平等」である。

「マイクに届くように、台を持ってきてあげようか」というのが、「実質的平等」である。

 

(「マイクに届くように、台を持ってきてあげる」というのは、女性に対する優遇措置だけを求めるみたいで、ちょっと一方的過ぎるので、「マイクの高さをアジャストする」ほうがいいのではないかというのが最近の議論だけれど、「台を持ってくる」ことと「マイクの高さをアジャストする」ことの違いは、また別の機会に)

 

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ということで、今日の結論である。

 

アメリカの男女平等というのは、本質的におかしいのだと思う。

 

絶対にそこにある違いを見て見ぬふりして、表面的に、形式的に平等にしていくというのは、私には根本的に違和感がある。

 

性別にしろ、人種にしろ、まず何が違うのかを自由に議論すべきである。そして、違いを前提に、どうやってその違いに制度をアジャストしていくべきかを議論すべきである。

 

形式ではなくて、実質を重視しましょう、というのが今日の結論でした。

 

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「レディ・ファースト」っていうのは、きっと南部の文化なんでしょうね。

 

アメリカはとても広大なので、文化圏も様々。ニューイングランドの女性を相手に、「女の子だから」「レディ・ファースト」っていうのをやるのは、とっても危険なことなので、気を付けましょうというお話でした。

 

写真は、今年のロースクールの卒業式で講演したサラ・ジェシカ・パーカーです。この人も、私たち卒業生に対して「彼女・彼らの未来に」って挨拶してました。

ブログ160807