留学は楽しかったし、基本的にクラスメイトはいい人が多かった。だけれど、いやなことが全くなかったわけではない。

 

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留学がはじまったばかりのある日、私はレストランでサマースクールのときの友達とお茶をしていた。

 

気持ちのいい天気だったので、お店の外のテーブルでお茶をしていると、ハーバードのクラスメイトの女の子たち7、8人が連れ立ってレストランに入っていくのが見えた。彼女たちも、こちらに気づいて声をかけてくれた。

 

一緒にお茶を飲んでいたサマースクールの友達が帰るといったとき、私はもうちょっと誰かと話していたい気分だったのである。それで、レストランの中に入って、「友達が帰っちゃったの。私も混ざっていい?」と、クラスメイトの女の子たちに尋ねた。

 

その中の一人の女の子が、「席がないから」と私に告げた。

 

横の二人が「お店の人に言って、椅子を持ってきてもらったら?場所はあるんだから、椅子さえあれば座れるわよ」ととりなしてくれたけど、その一人の女の子は、「席がないから」と、もう一度、繰り返す。

 

いたたまれなくなったので、「そっか。じゃあ仕方ないね。また明日ね」と言って、レストランを出た。

 

家までの帰り道で、私は、なんか泣けてきてしまった。

 

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こんな話もある。クラスメイトの女の子は、とても頭が良くて、まじめな子なのだけど、英語がうまくなくてさほど社交的でもない。

 

とても難しい授業を取っていた彼女は、同じ授業を取っているクラスメイトの男の子に、「この授業を取っている人たちで勉強会って作られているのかな。あったら入れてほしいな」と尋ねた。

 

男の子は「知らないなぁ」と繰り返すばかり。何度聞いても同じ答えが返ってきたそうだ。

 

学期が終わって、知らないどころかその男の子自身が、勉強会を主催していたことが明らかになる。

 

「英語ができないやつを入れると、勉強会に貢献してもらえないうえに、フリーライドさせることになるから」と、彼は言っていたらしい。

 

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私は思ったのである。

「席がない」というほうも、「勉強会なんて知らない」っていうほうも、大した悪気はないんだろうなと。

 

英語ができない人が加わると、なんとなく会話がスムーズにいかないし、勉強会の議論がうまくまわらないし、気を使うし、ちょっと億劫だし

って、そのくらいの気持ちって理解できるし、大した悪気などないのだろうなと。

 

そして、私はふと気づいたのである。

私は、いままでの人生で、こうやって人を押しのけたことが一度もなかっただろうかと。

 

いや、たぶんたくさんあるよ。意識して意地悪したわけではなくても(意地悪したこともあったかもしれないけど)、人を押しのける側は、常に大した意識はしていないのである。

 

人を傷つけたことに気づいてないし、押しのけたことに気づいていないし、ぶつかったことにすら無自覚なのである。

 

そして、私は思ったのである。

優しい人になろうと。

 

自分の傷には異常なくらいの敏感な人も、他人の傷には鈍感なことが、えてして多い。

 

他人の傷に対するセンシティビティというのが、「優しさ」なのだろうと、私は思うに至った。

 

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では、どうすれば優しくなれるのだろう。それは、他人の傷に対するセンシティビティを上げていくしかないのではないか。

 

細かいことに傷つきやすくて、傷つくとすぐにくよくよしてしまったり、延々と気にしてしまったりする人がいる。そうかと思えば、細かいことをいちいち気にせずに、何事もポジティブに捉えて、落ち込まない人がいる。前者の人間というのは感受性が比較的強く、後者はいわゆる「鈍感力」タイプである。

 

「あー、あのときこう言っちゃったけど、感じ悪かったかな」「あー、こういうことしちゃったけど、今、思えばああいうべきだったな」

 

感受性の強い人っていうのは、往々にしてこういうことに悶々とする人々である。一人の部屋で延々と、自分の失敗を思い出していると気持ちも暗くなる。根暗で、うじうじした性格とも言える。

 

こういう鬱っぽい性格を直すために、内に向きがちな性格を改善して、何事も気にしないようにして、感受性を下げていくべきではないかという考えを、この間読んだ。

 

でも、私はこの考え方には、断固として反対である。

 

どれほど傷つこうとも、感受性だけは絶対に下げるべきではないと思うのだ。

 

自分自身に対するセンシティビティがなければ、他人に対するセンシティビティなど得られないだろう。そして、他人の気持ちに対する感受性だけが、他の人に配慮し、他の人に歩み寄ろう、寄り添おうとする、そういう「優しさ」を作り出せるのではないかと思うのだ。

 

他人が何を考えているのかとか、どういうことに傷ついたのかとかって、結局はよく分かんなんだけど、よくわからないことは考えなくていい、意見を言わない人は意見がないっていうのは、やっぱりガサツすぎるだろう。

 

センシティビティというアンテナを高く掲げることが、「よく分からない」他者の内面にリーチする、ほぼ唯一の方法ではないだろうか。そして、それが「優しさ」を生み出すのではないか。

 

そして、この優しさというのは、人として考えうる最も重要な資質のひとつであろうと。

 

まあ、バランスは大事ですけどね。あんまり欝々としていると、精神衛生上、よくないですからね(笑)。

 

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さて、今日の結論です。悲しい思いをしたときには、「おー、なるほど、私はなんて感受性の強い人間なのだろう」と褒めてあげましょう。そして、そのセンシティビティのアンテナを他人に向けるように、訓練してみましょう。まあ、私も別に配慮ができる人間ではないのですが、悲しい思いを心にしまっておいて、悲しい思いをすることがなくなって、毎日楽しいな、うまくまわってるなって思えるときに、逆に思い出してみたらいかがでしょう。

 

楽しくてうまくいっているときほど、意識せずに誰かを押しのけているかもしれませんから。

 

さて、なんかしんみりした気分になってしまったので、明るい写真を

ブログ160718