ダラス銃撃事の後、アメリカは国を二つに分けてしまいかねない混乱の中で、「この痛みを分かち合おう」と再びひとつに結びつくことを求める呼びかけが広がっている。
こう書くと違和感ありませんか?
「国を二つに分けてしま」うんですよ?二つですよ?つまり、ダラス銃撃事件は、白人と黒人というアメリカの国を二つに引き裂く対立軸を明らかにしたのである。アメリカ全土が「白人か?」「黒人か?」という二つのグループについて議論しているときに、いったい、私はどちらの立場からこの議論を受け止めればいいのだろう。
私なんかは通りすがりの日本人で、この国に永住するつもりはなく、傍観者に過ぎないのでいいのである。しかし、この国で何年も暮らして骨をうずめるつもりの日本人が何人もいる。韓国人のコミュニティもある。ABCと呼ばれるAmerican Born Chineseは、特に西海岸では一大勢力となっている。
アメリカでは人種問題を議論する機会が、とても多い。そして、それは必ず「白人か」「黒人か」という議論である。そして、そういうディスカッションが起こるたびに、私は、自分をどこに位置付けていいのかわからなくなる。黒人の学生たちが自分たちの立場を、生まれてこれまで受けてきた屈辱を、怒りを込めて表明し、白人の学生が、時に力強く、時におずおずと、賛同の意を表明して、喝采を浴びるとき、私はテニスの試合を眺めている観客のような気分になる。
黒人のコートから打たれた球は、白人のコートに入って打ち返される。そして、ラリーの応酬は続くのである。私はテニスボールの動きに合わせて、頭をこっちに向け、そっちに向け、左右に振り続ける。私たちのコートにボールが落ちることは永遠にない。私たちに意見が求められることは永遠にないのである。自分たちの頭上をかすめて通り過ぎていくラリーの応酬に、私は自分が「透明人間」になったような気がする。Invisible―見えない存在である。
この国に生まれ、この国に骨をうずめることを決意したアジア二世の若者たちにとって、これは大変な疎外感を感じる出来事ではないだろうか。
ニューヨークの新人警官だったピーター・リアンのケースをご存じだろうか。ピーター・リアンはニューヨークのチャイナタウンで生まれた二世である。そして、この十数年ではじめて、業務中の過失により起訴されたニューヨーク市警となった。2014年11月20日、警官になって18か月のこの新人は、危険とされるブルックリンをパトロール中だった。規則に従って、銃を携帯した彼は、暗くて先の見えない階段に向けて銃を撃つ。「どうして撃ったのか?どのように撃ったのか?」主張は対立し、真相は定かではない。そして、不幸なことに、彼の放った銃弾は、5階に住む28歳の黒人アカイ・ガーリーの胸を貫き、彼を死に至らしめたのだ。リアンは過失致死で起訴されることになる。
確かに過失はあったのかもしれない。しかし、階段は暗くて、その先にガーリーがいるのは見えなかったのである。このケースは、決して意図的な銃撃ではないのである。明らかに意図的に至近距離から銃撃している警官の映像がユーチューブに多く流れ、それでも起訴されないケースが多い中で、なぜこのケースだけが起訴されたのか。
折しも、警官に対する黒人からの不満がアメリカ全土で高まっていた時期。「スケープゴートにされたのだ」と、アメリカの中国人コミュニティは憤った。今年の2月にワシントンを訪れた際に、リアンのケースに抗議するデモ隊の集団を見た。プラカードを持ち、列を作って静かに歩く。時々声をあげるものの、道を通る人があればわきによけて、道を譲る。その遠慮がちな姿は、この国に住むアジア人を象徴しているようにも思えた。
今年のアカデミー賞の司会を務めた黒人クリス・ロックは、3人のアジア人の子供たちに、タキシードを着せ、ブリーフケースを持たせて、会計士を装わせた。「数学が得意な奴ら」というアジア人のステレオタイプを示して、それをこばかにするような冗談である。権力をおもしろおかしく揶揄するジョークが広く受け入れられているアメリカでも、マイノリティを軽侮するジョークを、しかもアカデミー賞の舞台でやってのけるのは、品のいいことではない。
第二次世界大戦の時に、日本軍と戦うことを選んだ日系二世たちは、「祖国に銃を向けて、我々の味方をしてくれてありがとう」と言われたそうだ。アメリカで生まれた彼らからすれば、「祖国」はアメリカのはずである。しかし、アメリカ軍は彼らを自分たちの一員とは認めなかった。
アメリカで生まれた中国系の女の子は私にこう言った。「人は、私に『私にどこから来たの?』と聞く。『カリフォルニアよ』というと、『でも、もともとはどこから来たの?』とさらに聞く。黒人か、ヒスパニックで、英語が完璧に話せれば、誰も『どこから来たの?』とは聞かないはずよ。この国は、いまだに私たちを『アメリカ人』とは認めていない。」
黒人が大統領になり、女性が大統領にリーチをかけたこの国でも、アジア人が大統領になる日は遠いだろう。声をあげて、悲しみを訴える人たちだけが、虐げられた被害者ではない。声をあげない人たちの声を救い上げることも大切だと思う。
(写真は、この国の政治の中心、ホワイト・ハウス)