最近、色々な報道を見ていると、間違いを犯した人を叩いて、叩いて、完膚なきまでに叩いて、それで落ち目になっても、まだ叩き続けるという風潮が、ときとして見えるように思う。もちろん、最近に限ってのことではないのだろうけど、やけに目につくのも事実である。

 

これってどうしてなんだろうというのを、今日は、私なりに考えてみたい。

 

政治家とかセレブリティとか、そういう社会的強者に対して、自己投影しなくなったことが、この原因ではないかと私は思うのである。

人が叩かれているときにですよ。もし「自分が同じ状況になったら」と想像したら、ちょっと怖くなりません?自分がこの人の母親だったら、妻だったら、子どもだったらと想像すると、なんかちょっとやりすぎはよくないのかなぁなんて、思ってしまったりしません?

いや、もちろん、理由がなく叩いているわけではないのは重々分かっているので、批判することが悪いとは全く言わない。でも、完膚なきまでに叩かれて、すでに地に落ちた人をさらに踏みつけるのは、「批判」とはちょっと別の次元なのではないかという気がするのである。

 

この人は、自分とは住む世界が違う人、この人の立場になることは絶対にない、と思わなければ、できないことではないか。社会的強者と自分との間に完全な線を引かないと、これはできないことではないか。だって、ちょっとでも叩かれている側に共感してしまったら、完膚なきまでに打ちのめすのは難しいと思う。社会的強者というのはもう自分とは違って強い人であるはずだから、叩いても大丈夫なんだという前提があるのだと思う。

これは、とても冷めた達観である。逆立ちしてもなれないであろうトランプという億万長者に、自分自身を投影して応援しちゃえるアメリカ人の能天気さに比べると、えらい違いである。

 

日本の社会は、それだけ固定的になってきているのだろうと思う。自分が生きている間にできることなんて、しょせん、このくらいで、ここまでは絶対に行かないっていう達観が支配するようになってきているのだと思うのである。だから、社会的強者に自己投影なんてしない。強者が地に落ちたら、足蹴にして、さらに泥をかけたってなんとも思わないのである。

 

そして、私自身、このあきらめに似た達観が、とてもよくわかるのである。

アメリカに来て、私は初めて英語環境に身を置いた。そして、思ったのである。どれだけの努力をしようと、私はネイティブのように英語をしゃべれるようには、絶対にならないと。いや、それは努力すればうまくなると思うよ。実際に、少しはというか、初めのあまりにダメなところから比べたら、ずっと英語はよくなったと思うよ。でも、ネイティブのように話したり書いたりできるようには、絶対にならないと思う。ネイティブと非ネイティブの差というのは、それほど、ものすごく大きいと思い知ったのである。

 

努力してもできないであろうと思うのは、初めての経験だった。

そして、その時に私は、「美しい英語を使いこなすネイティブ」というのが「目標」ではなくなったことを知った。「あー、こんなふうに英語を使う人もいるんだ」という「対象」に変わったのである。

 

自分が努力した先に、この人がいると思うと、なんとなく自分の分身のように感じちゃう。感情移入しちゃう。応援しちゃう。けれど、「対象」に変わった時点で、自分が一気に冷めたことに気づいた。この人は私じゃない、逆立ちしたってなれない。英語圏に生まれた人は、生まれながらの強者である。私はこの国ではマイノリティで弱者である。弱者は、強者に足で砂をかけたってかまわないだろう。

 

そんなときに、私は母の言葉を思い出した。私の母は仕事をしながら、私と妹の二人を育ててくれた。子ども二人を育てるっていうのはそれだけでものすごい重労働だと思うし、いっぱい時間もエネルギーも使ったと思う。

子どもがいなくて、仕事だけに邁進して、すごい成功を遂げた人の話を聞いたときに、私は母にこう尋ねた。

「うらややましいと思う?子どもがいなかったらと思ったりする?」

母は、笑ってこう答えた。

「何言ってんのよ。私はあなたたちを通して未来を夢見てるんだから。私たちの世代がつまずいた壁を、あなたたちはやすやすと超えていけると思ってるんだから」

 

なるほどー。その手があったのか。

相当な能力があるか、相当な楽天家でもない限り、ある程度の年齢になれば、自分の限界に気づくはずである。自分が生きている間にこれはできるけど、これはできないというのが、分かってしまうはずである。自分の限界を超えている人に対して、人は感情移入しない、応援しない、目標にしない。もう、単なる対象にしてしまう。

 

けれど、自分は一生かけてもなれないであろう人に嫉妬して、落ち目になったところで留飲を下げ、さらに足で砂をかけるのは、やっぱり少し寂しいだろう。

「ネイティブって、傲慢で、配慮がなくて、嫌な奴」と思ってしまった自分が、私は情けなかった。なんて、器の小さい人間なんだろうと思った。私は、そのときに、次の世代に希望を託すという母の言葉を思い出して、嫉妬がすっと引いていくのを感じた。

 

私たちは、やっぱり、次の世代に希望をかけ続けなくてはいけないと思う。そういう社会を維持し続けなくていけないと思う。

だから、教育というのは何よりも重要である。

ハーバードには移民の二世・三世がとても多い。言葉の壁につまずき、教養と学歴が障害となった第一世代は、子どもの教育に命を懸ける。そうやって、次の世代に見果てぬ夢を託す。

「自分たちのつまずいた壁を、あなたたちは超えていってほしい」という両親の願いを受けた子どもたちは、一生懸命に努力して、優秀な成績をおさめて、そして世界へと羽ばたいていくのである。

努力した人たちが、どこまででも上っていけるシステムを維持しなくてはいけない。社会を固定化してはいけないと、強く思うようになった。

 

さて、ハーバード・ロースクールを卒業しました。充実した一年でしたが、やっぱり苦労もしました。私たちの次の世代は、私が苦労したこの壁をやすやすと超えて、世界へと羽ばたいていけますように!

ブログ160623