今回は、テーマをひろげて「親」とは何かについて書いてみようと思う。ある子供について、誰が「親」であるかというのは、もう誰が見ても間違いがないくらい明確なのだろうか、本当にそうだろうかということを考えてみたい。

 

まずは、次の三つの例から:

1) 病気によって卵子を作れず、さらに子宮摘出の手術を受けているため、妊娠もできない女性が、卵子ドナーから卵子提供を受けて、海外に渡って代理母出産しました。遺伝的には卵子ドナーがお母さん、子供を産んだのは代理母です。さて、この子の母親は誰でしょう?

2) 結婚して妊娠した母は、子供が1歳になる前に離婚してしまいました。ドメスティックヴァイオレンスというわけではないけど、ハラスメントが過ぎる父親とは、離婚してすぐに疎遠になり養育費も、受け取ってません。子供が2歳の時に母は再婚し、それから18年。実の親子ではないことは娘も知っているけれど、再婚相手は娘をとても可愛がり、娘も「お父さん」が大好き。さて、この子の父親は誰でしょう?

3) これは私の友人の話ですが、彼女の母親は検事。それも、5人目の女性検事とかそういう時代の人で、検事は子供を育てながらやる仕事ではないとされていました。だから、母親は、友人を祖母に預けて、単身赴任で働いていました。友人は大学を卒業するまで祖母と住み、母と住んだことは一度もないそうです。さて、友人の母親は誰でしょう?

どれも、親子関係は明らかだと思われるだろうか?だが、「親」とは何かという定義次第で、誰が親になるかは変わってくるのである。今回は、このことを考えてみたい。

 

Yehezkel Margalitは、親の定義として5つの分類を指摘する。

 

「遺伝」による定義:子供は一組の男女からの遺伝子を引き継ぐ。この子供と遺伝的につながっている一組の男女が親であるという定義である。

 

「出産」による定義:子供を産んだ女性が母親であるという定義。これは女性限定の定義である。別の女性の子宮に受精卵を埋め込んで、出産してもらう。こういう代理母が技術的に可能になるまで、「遺伝」による定義と「出産」による定義を分ける必要はなかった。子供を産んだその母親は、当然、子供と遺伝的につながっていると考えられていたから。けれど、科学の発達がいろいろなことを可能にし、卵子を提供した女性と、子供を出産した女性は、別人の可能性が出てきた。だから、子供を産んだ女性が母親なのか、遺伝的に子供とつながっている女性が母親なのかは、別の問題として分けて考える必要がある。

 

なお、「生物学的な母親(biological mother)」という場合には、子供を産んだ母親と、遺伝的につながっている母親の、両方を指すことになるのである。どちらのことを指しているか明確にしたいときには、厳密にいえば、遺伝的につながっている母(genetic mother)か、子供を産んだ母(gestational mother)という言い方をする必要がある。

 

「婚姻推定」による定義:子供を産んだ女性と結婚している夫は、生まれた子供の父親と推定されるという定義。これは男性限定である。遺伝子検査が精度を増したのは、ごくごく最近のこと。それ以前は、父親と子供の遺伝的なつながりを証明する手立てはほぼなく、この推定規定がとても重要な役割を果たした。「夫が子供の父親である」という事実に基づく定義ではなく、「夫が子供の父親であるべきである」という規範に基づく定義になっているともいわれている。

 

「意志」による定義:親になるという意志を表明した人が親であるという定義。たとえば、以前から、養子縁組の場合には、この「意志」による定義が使われてきた。生物学的なつながりのない親が、養子を子供として受け入れる。この親子関係は、養親の意志のみによって成立しているのである。

 

「機能」による定義:実際に親としての役割を果たしている人が親であるという定義。たとえば、生物学的な父親は別にいるものの、再婚相手が父親代わりになって、衣食住といった生活に必要なものを与え、子供の可能性を伸ばすように教育し、将来の進路についてアドバイスし、精神的に子供を支えているとする。この場合、実際に父親としての役割を果たしている再婚相手が父親であるというのが、この定義に基づく結論である。

 

母親については「出産」による定義を採用、父親については「結婚推定」による定義を採用して、その背景として「遺伝」による定義を正当化根拠にするというのが、伝統的な方法である。つまり、子供を産んだ女性を母親と決める。そして、その母親と結婚している男性を父親と決める。その理由として、この一組の男女は、子供と遺伝的につながっている可能性が高いから、というわけである。

先ほど書いたように、子供を産んだ女性は、その子供と遺伝的につながっているのが、当然だった。また、夫が戦地に行っていたとか例外的な場合を除いて、子供と遺伝的につながっている可能性が高いのは、もちろん、子供を産んだ女性の夫である。だから、「出産」と「結婚推定」の定義は、遺伝子テストがない時代には、遺伝的なつながりを推測するための道具だったのである。

 

それが、精子ドナー、卵子ドナー、代理母などの生殖補助医療(Assisted Reproductive Technology)が盛んになって、それまでの常識が崩れる。この時代に、「意志」によって親を定義しなおそうとしたのがMarjorie Maguire Shultzである。彼女が1990年に発表した論文は革新的だった。生みの親だろうと、育ての親だろうと、生殖補助治療に頼った親だろうと、みんなまとめて親になる意志がある人が、親だってことにしましょうよ、と彼女は提唱したのである。

ひとつのメリットは、生みの親も、養親も、ドナーを使った親も差別しなくていいということ。生みの親に比べて、養親は肩身が狭い。定義を同じにすれば、そんな差別も減っていくだろうと思われた。ふたつめのメリットは、父親も母親も差別しなくていいということ。父親というのは、母親に比べて、どうしても子供とのつながりが遠くなってしまっていたのである。ステップ1として、子供を産んだ女性が母親と決める。ステップ2として、母親と結婚している人が父親と決める。父親と子供との関係というのは、母親が決まらない限り定まらない。父親は、母親を介してしか子供とつながれない。でも、「意志」による定義ならば、男女どっちにも公平なのである。

 

そして、今、「機能」による定義も着目されている。離婚率が高くて、再婚率も異常に高いアメリカでは、継母・継父と暮らしている子供もとても多い。実際に、親としての役割を果たしている人が、子供の日常に必要なことを決めたり、子供の教育について決めたりするのがいいのではないか、というわけである。

 

振り返って日本はどうかというと、民法に嫡出推定規定があるので、父親については「結婚推定」による定義が採用されている。母親については、民法に明確な規定はないものの、「出産」による定義が採用されていると考えられている。昭和37年4月27日の最高裁判例が、「出産」による定義を前提にしていることが、その根拠である。今年の3月に自民党の部会で承認された法令案によれば、子供を出産した女性が母親であることを法律で明確にするそうである。

 

日本においては、もともと「血のつながり」がとても重視されてきたように思う。これ自体は、悪いことでは全くない。「意志」とか「機能」とかはもやもやしてはっきりしない。親としての意志がある人と、親としての機能を果たしている人が複数いる場合、誰が親になるのか分からなくなるし、誰も親にならない可能性だって出てくる。そうなると、最終的に誰が子供に対する責任を負うのか分からなくなって、子供は不安定な状態に置かれてしまう。

 

だから、「血のつながり」による定義をやめてしまいましょうというつもりは、私は全くない。けれど、親となる意志や、親としての役割を、どうやって法律の中に取り込んでいくか、もっと議論されてもいいのではないかと思う。「血のつながり」という状態だけが、家族にとって大切なことではないと思うのである。血がつながっていて、近しい人間の場合には、相手も自分を理解してくれているという甘えがある。そして、理解されない時には、裏切られたように感じて、反発してしまう。

 

だけれど、どれほど近しくても、しょせん、他人は他人なのである。他人の気持ちは伝わらない。他人の孤独は分からない。でも、それでも、少しでも、理解したいと思う気持ちが、寄り添いたいと思う行動が、私たちを堅く結びつけて、家族にするのではないかと思うからである。家族というのは「状態」ではない、理解しようという「意志」であり、歩み寄ろうとする「行動」である。「家族である」のではなくて、「家族になり続けなければいけない」。私はそう思うのである。

ブログ160613

写真は私と妹です。お互い機嫌が悪くて、不愉快なことを言ってしまうこともいっぱいある。けれど、私が落ち込んでいるときには、私の気持ちを理解しよう、寄り添おうとしてくれる、妹にはいつも感謝。私も、彼女のよき姉であり続ける努力をしたいと思っている。