前回は精子ドナーについて書き、いくつも鋭いご指摘をいただいたので、今回は「代理母」について書いてみたい。日本では、2003年の女優の向井亜紀さんによる出産の事例が有名である。彼女の場合には、アメリカのネヴァダ州で代理母による出産をしたものの、日本では「実子」として戸籍に登録することができず、最高裁まで争った。2007年、日本の最高裁は、実子としての登録を認めた高等裁判所の判断をひっくり返して、「やっぱりダメ」という判決をくだしたのであった。
日本では、産婦人科学会の会告によって、「代理母」は全面的に禁止されている。精子ドナーのところでも、産婦人科学会の会告と書いたが、日本の場合には、法律による規制はない。医者が代理母を斡旋したり、卵子を子宮に着床させて、妊娠、出産を手助けしても「違法」ではない。代理母になってお金を受け取った人も、お金を渡した人も取り締まられない。本来、法律で決めるべき部分が空白になっていて、産婦人科学会という医師の団体が、代理母の規制に大きな役割を果たしているという、いびつな構造である。どうして、いびつなのかというと、家族の在り方に関係する重要な問題が、民主主義とは無関係に決められているからであり、そして、「産婦人科学会、恐れるに足らず!」と固く決意して、わざと会告を破る医師がいた場合に、それを止めることはできないからである。実際に、長野県には、代理母出産をして、それを公表している病院があるようである。この分野は20年近く、立法化に向けた議論がなされているがなかなか法律ができてこなかった。今年の3月に自民党の部会が、この分野の法律を承認したので、これから国民的な議論が発展していくといいと思っている。
では、まず「代理母」の種類について。代理母は「Surrogacy」というが、「Traditional Surrogacy」と「Gestational Surrogacy」の2ついにわかれる。「従来型代理母(Traditional Surrogacy)」は、代理母が卵子を提供し、さらに母親の代わりに妊娠して子供を産むというもの。それに対して、「借り腹(Gestational Surrogacy)」というのは、両親の提供した卵子と精子を掛け合わせて受精卵を作ったのちに、それを代理母の子宮の中に着床させて子供を産むというもの。「借り腹」の場合には、母親と遺伝的なつながりがあるのに対して、「従来型代理母」の場合にはそれがなくなってしまうのである。なお、「Gestational Surrogacy」は「借り腹」と訳すようだが、私は、この表現が嫌いなので使いたくないのである。「借り腹から生まれてきた子供」って、なんかすごくいやーな感じのする表現ではないだろうか。代理母に対する軽蔑とか、生まれてきた子供への差別とかが混ざりこんでしまった表現のように感じないだろうか。私自身は、この表現に悪意を感じてしまうので、卵子は提供しないで「妊娠」のみ提供する代理母という意味で、「Gestational Carrier(妊娠提供者)」という表現を使いたいと思う。
従来型代理母については、ニュージャージーの最高裁が、Baby Mというとても有名なケースで「違法!」と判断した。「卵子を提供して、妊娠を提供して…それって本当に『母親』そのものではないですか、どこが『代理』なんですか」という気がしてくるので、今では多くの州で事実上ほとんど行われていない。アメリカの代理母の多くが、「妊娠提供者」型である。この「妊娠提供者」型については、カリフォルニア州のJohnson v. Calvertという判例がある。卵子提供者と妊娠提供者の二人のうちどちらが母親になるべきかについて、カリフォルニア最高裁は卵子提供者のほうを母親として認めたのである。
次は「有償」か「無償」か。先進国の中では、商業的な代理母を認めている国はほとんどないのではないはずである。 貧しい女性が妊娠という重労働とリスクを肩代わりしてお金を受け取るということになれば、貧しい女性から搾取しているのではないかという倫理問題が生まれるからである。だから、妊娠にかかった医療費などの実費のみを支払う「無償」型が、大部分である。もっとも、カナダの場合には、「無償」といっても、代理母になってほしい一心で車を買ってあげたりすることもあって、「実質的には有償みたいになっている」と教授は言っていた。アメリカのいくつかの州では、この有償の代理母が認められている。
さらに、代理母を求める理由による分類もできる。子宮を摘出してしまったなど妊娠ができなかったり、困難であったりする場合に限るのか、それとも理由を問わず、代理母を認めるのかという違いである。向井亜紀さんの場合には、子宮頸がんによって子宮を摘出したため妊娠することができなかったと記憶している。そういう女性と、「仕事をバリバリこなしたい。産休を取って遅れをとりたくない。誰か、私の妊娠、代わって」という女性のどちらも、代理母に頼ることができるのかという問題である。日本での代理母導入の議論においては、妊娠ができない事例に限って実験的に導入するのがいいのではないかという提言がなされている。アメリカの場合には、理由によって区別するという判断はなされていない。
そこで、私は、どんな理由でも代理母をお願いすることができるのか、その場合にいくらかかるのかを、リサーチしてみることにした。
共働きのカップルが子供を望む場合、実家の両親に頼れない、保育園に入れられないとなると、女性が離職するケースが多い。それがごく自然な判断なのである。ひとつめは、男女の物理的な違い。妊娠・出産ができるのは女性だけ、母乳をあげられるのも女性だけなので、妊娠した女性は仕事を休んで、出産後も家で子供の面倒を見ることが多い。ふたつめは、男女の社会的役割の違い。子育ては「ケアや癒しを得意とする」女性の仕事と、社会的に認識されているのである。少なくとも、日本とかアメリカとかでは、社会的に子育ては女性の仕事とされている。この物理的、社会的な違いを前提にすると、子供が欲しい場合には、女性のほうが休職したり、そして職場復帰せずに離職したりするのは、なんとも自然ななりゆきになってくる。
で、私は、この「しごく当然のなりゆき」をなんとかできないか、検討してみようと思ったわけである。国に頼るのは常套手段である。保育園を作る、就労支援する、できることはたくさんあるだろう。だけれども、予算は限られている。だから、市場に頼ってみるのはどうだろう。家庭内における女性の仕事とされているものは、市場にアウトソーシングすることはできないだろうか。料理・洗濯・子守を他人にお願いできるなんて、お金持ちだけだというイメージがあるかもしれないけれど、もっと需要が増えれば競争が激しくなって、安い値段で使いやすいサービスが生まれてくるんじゃないかという気がする。
ということで、料理・洗濯は、今後、なんとかなるのではないかと考えて、今回は、女性の大仕事のひとつ「妊娠」を市場にアウトソースできないかという、なんとも大胆な問題をまじめに検討してみることにしたのである。
第一関門として、先ほど書いたように、マサチューセッツ州の法律は、代理母に頼れるかどうかを、理由で区別してはいない。そこで、実際にクリニックに行って聞いてみることにした。クリニック側が患者に対してどういう説明をするかを研究するため、患者として病院に行って説明を聞いてみることにしたのである。病院側に必要以上に時間を取らせたり、迷惑をかけたりしてはいけないので、「情報収集をはじめたばかりで、具体的な手術の予定は立てていないと病院側に説明する」「2回目以降の予約は入れない」など、研究目的として正当な範囲に収めるように、教授と細かく打ち合わせした。
さて、ボストンでも老舗といわれるクリニックに予約を入れて、緊張しながら行ってみる。アメリカでは、みんな車があることが前提になっているようで、バスを二本乗り継いで片道1時間かけて到着。まずは、病院内を見学する。広い待合室には雑誌が多く置かれているが、「赤ちゃん雑誌」のようなものは一切ない。さらに、みんなの待合室から離れて個室の待合室も。
「ここには妊娠できなくて苦しんでいる女性が多く来る。そのうえ、妊婦もくる。妊婦を見て落ち込んでしまったり、取り乱してしまったりしないように、プライベートの待合室を置いているの」とスタッフから説明を受けた。やはり、日米両方で、不妊というのはデリケートな問題なのである。
病院内の案内を受けた後に、カウンセリング。そこで、「仕事での競争がとても激しくて、産休を取って戻ってきた場合にはもとの部署に戻れないかもしれない。もし、産休を取って休んでいる間に減ってしまう収入と、代理母にかかるお金を比べてつり合いが取れるようなら、代理母を検討してみたい」と説明。
クリニック側からの答えは、「NO!」
「代理母の人数は決して多くなくて、妊娠できなくて困っていてカップルとか、ゲイのカップルとかが、代理母を求めて待っている状態なの。だから、たとえお金を払えたとしても妊娠可能な女性が代理母に頼ることはできない」とのこと。
さらに、クリニックからは、「長時間労働をしていて、キャリアを追求したいから、代理母を頼みたいという、中国人の女性からの同じような問い合わせが、最近とっても多い。そういう問い合わせにはNOと答えている」とのこと。
代理母に要する費用は、なんと総額100,000ドルになるそうだ。子供を手放したくないといった争いが多きると困るので、他人の子供と自分の子供を混同しない精神的に成熟した女性であることが必要とのこと。精神面でのチェックなどのテストで4,000ドルかかってしまうらしい。日本人のカップルがアメリカに代理母を求める場合には2,000万円はすると聞いていたが、旅費も含めるとこの数字は大げさではないようだ。
よく聞いてみると、代理母向きの女性というのは、「若くて失業していて…」という人ではなくて、「中流階級で、子供も2、3人いて、精神的に成熟していて…」という人で、そういう代理母を探すのは難しいらしい。
トランプみたいな発言をしたって、成功してお金を持っていれば尊敬の対象となる、言い換えれば、お金でなんでも買えてしまえそうなアメリカという国でも、「子供はお金で買うことはできない。それと同じように、妊娠もお金で売り買いすべきではない」という倫理観が定着していることに、安堵を覚える。ただし、アメリカという市場命みたいな国であってさえ、妊娠はお金で買うのは難しいのだなと思うと、残念な気持ちにもなる。私自身が選ぶかどうかというと躊躇はするものの、もし本当に「キャリアも子供も両立したい」と切望する人がいれば、「妊娠提供者に頼る」という選択肢があってもいいのではないかと、私は思っている。
そういうと「妊娠というのは、まだ生まれない子供のことを考える貴重な機会。その体験よりも仕事を選びたい人は、母親になる資格はない」と反論を受けるだろう。妊娠を代わってもらおうという考えを一瞬でも抱くこと自体に、嫌悪感を覚える人の意見を、私は完全に理解できるし、部分的に賛成できる。
しかし、「母親になる資格」ってなんなんだろうなって思うのである。
子供に必要なものを与えられることだろうか。
必要なものって愛情なのだろうか。確かにそうだろう。子供が自分の手で未来を切り開くための知識だろうか。それも大事だろう。清潔な住まいと栄養のある食事だろうか。それも大事に違いない。それならば、住まいや食事を与えられない、つまり、一定以上の収入がない(または一定以上の収入を得るパートナーがいない)人は、「母親になる資格」がないのだろうか。これは難しい問いである。
さらに言えば、私は、「母親になる資格」のなかに、「親になった時点で、自分のこと(自分自身のキャリア、ライフスタイル)よりも子供のことを優先できること」を含めて考えている人が多いような気がする。これは日本だってアメリカだって同じである。私の母は、間違いなく私たち娘を優先してきたし、私の中にもその価値観は根付いている。
しかし、自分のキャリアと家族にどれだけの時間とエネルギーを注ぐかは、これこそ、人間としてのコア中のコア。「プライバシー」の領域なのではないか。そして、それを自分で決められることが、「個人の尊厳」なのではないか。だからこそ、この部分の価値観を人に押し付けるときには、よくよく慎重にならないといけないと思うのである。
写真は、駅で見つけたなんかちょっと理解しがたい楽器を演奏しているおじさんの写真。ほら、常人には理解しがたい楽器だって、このおじさんにはこれがベストなものだったわけじゃない。これを普通のドラムに変えなさいとかいわないで、そういう選択って尊重されてしかるべきじゃないですか。