私は、ワークライフバランスという言葉が、とてつもなく嫌いである。

 

ずっと昔からこの言葉に嫌悪感を感じていたのだけれど、その理由が最近ついにわかった気がしたので、今日は、そのことを書いてみたいと思う。

 

アメリカで「表現の自由」についてのクラスを取った。アメリカでは、「表現の自由」だけて、ひとつのコースができてしまうくらい、これはメジャーな分野なのである。私はそのクラスで、話し手と聞き手のコスト負担のバランスを考えさせられるようになった。

 

たとえば、こういう事例があったとする。

 

黒人が数多く住んでいる地区に、白人至上主義者がやってきて、「この国は白人の国である。劣った種族は国を出ていけ」というスピーチをしたとする。このヘイトスピーの内容がそれはそれは挑発的なもので、群衆の怒りを買って、そのストリートはまさに一触即発の状態となった。暴動が起きる気配を察知した警官は、そのスピーカーをストリートからつまみ出した。

 

何かおかしなところがあるだろうか。しかし、かつて、このように対応した警察に対して、先進的な一人の最高裁判事が、「スピーカーをつまみ出すのではなくて、スピーカーを守るためにこそ、警察を使うべきではないか」との少数意見を書いた。そして、それが、今のアメリカでは多数派となったのである。

 

スピーカーはなんらかの意見を表明している限り、必ず保護されるべきであるという考え方が、アメリカの憲法解釈の基本となっている。トランプであろうとなんであろうと、

「私は、あなたの考えを心の底から軽蔑します。しかし、どれほどその考えが間違っていると思っても、言論市場からそのひとつの考えを削り取ってしまうことは、さらに間違っている」

こう、アメリカの判事たちは答えるだろう。

 

では、次の事例を考えてみよう。

アメリカの小さな町で大規模なデモが行われた。その町は、他の州も含めて大規模な警察の応援を頼まざるを得ず、その費用は、その町の予算をひっ迫するものだった。それ以来、その町は、デモを行う団体に対しては1,000ドルを上限とする費用を請求することに決めた。そして、ある団体に対して100ドルを請求したところ、これが最高裁で憲法違反となった。

 

たとえ、この費用が一律であったとしても、表現の自由を侵害するとして、憲法違反になる可能性が高いだろう。なぜなら、一律の費用であるとしても、その主張を支持する者が少なければ一人当たりの負担が高くなる。つまり、この規制は少数派の表現の自由を侵害するからである。小さな町であっても、警備にかかるコストは、税金から――つまりは聞き手から――徴収せざるを得ないのである。

 

こう考えると、アメリカでは、スピーチにあたって衝突が起きた場合の警察のコスト、つまり、スピーチにかかる費用は、話し手ではなくて、聞き手が負担するというルールが徹底されているといえる。

 

私はこのことから、集団と個人のバランスを考えるようになった。集団の中で一人だけ違った行動をするものがいるときに、その一人のためにかかるコストを集団に負担させるか、その一人に負わせるか、つまり、その一人に違うことをするのはやめなさいというか、どちらが正しいのか、という疑問である。

 

これは一概に答えを出せる質問ではない。ヘイトスピーチを続けさせながら、聞き手の暴動を抑えようとする警備にはとてつもないコストがかかる、話し手をつまみ出すほうが全体のコストは少なくなる場合が多いのである。それに対して、もしそれが一人の人間の自律にかかわることなら、「集団に従え」といって、人の尊厳を冒すのは間違っているのだと思う。つまり、その一人の「違うことをしたい」という欲求が、どれだけその人のコアの部分に関わるのかというところが決め手になるのだろう。

 

私は「ワークライフバランス」の考え方も、これと同じなのではないかと思った。

 

1) 仕事と私生活、つまり、パブリックとプライベートのバランスをどのように振り分けるかということは、個人の自律に関わる問題である。

2) それにもかかわらず、このバランスを自分で自由に決められない。上司が遅くまで働いていて、周りの人も遅くまで働いている職場では、プライベートに比重を置きたいという一個人が自分の意見を通しにくい。

3) これは絶対におかしい!個人の自律を侵害している!

4) だから、みんなで早く帰ろう!

 

私は「ワークライフバランス」の考え方をこのように理解している。そして、1)から3)までの流れには、基本的に賛成できる。

 

しかしである。3)から4)のところがどうしても理解できないというか、絶対におかしいと思うのである。パブリックとプライベートのバランスを、個人が自分の意志で決めることができないのはおかしいというのならば、「早く帰りたい人は早く、遅くまで残りたい人は遅く、個人が自由に選択しやすい環境を整えましょう」となるはずではないか。それが「強制5時退社」というのは、それこそ、強制であって、個人の自由をないがしろにするものではないか。本末転倒なのではないかと思うのである。

 

もちろん、「誰かが遅くまで残ることになったら、結局、上司の目を気にしてみんな遅くまで残らなくてはならなくなる、だからこそ、みんなで帰るという方針が、早く帰りたい人の選択の自由につながる」という反論はあるだろう。しかし、本当に心底仕事が大好きで、または、プライベートが充実してなくて、「遅くまで残りたい人」の選択の自由はどうなるのだろう。そんな「社畜」みたいな変わったやつの選択の自由は認めなくてもいいというのだろうか。でも、そうだとしたら、それこそ、少数者の選択権の侵害ではないだろうか。それとも、「それは個人の本心ではなくて、ブラック企業による洗脳の結果である」ということなのだろうか。しかし、十分な意志や能力が残っているはずがないと、個人の決断力を軽んじて、「客観的によい」と思う状態を押し付けるパターナリズムこそ、集団主義の根源だと思うのである。

 

私が、「ワークライフバランス」を好きになれない理由はここにある。決して、長時間労働を推奨したいわけではない。ただ単純に、パブリックとプライベートのバランスの立て方は、個人の意志が最大限に尊重されるべきであって、そのバランスが他者からどれほど不均衡に見えようとも、「正しいバランス」を他人が強制するのは間違っていると思うのである。これは「選択の自由」の問題である。

 

「社畜」というけれど、「社畜」になるという自由すら許されないのならば、そのほうがよっぽど「奴隷」的なのではないか、と、私はそう思う。

 

「選択の自由」ということで、無理やりですが、今日行ったバーの写真を。選択肢が多すぎてなにがなんだかわかりませんでした。。。誰か決めてください。。。

ブログ160511