「我々は、信仰心の篤い人々なのである!」
アメリカの連邦最高裁は、かつて、判決の中でこう宣言した。さて、アメリカの宗教とはなんだろうか。
「プロテスタントでしょ?」
と答える人は、常識的である。
「いやいや、そうはいっても、カトリックとかユダヤ教徒とかも、重要な役割を果たしてきたよね」
と答える人たちは、さらに造詣が深いのだろう。
実は、アメリカの宗教は「民衆教」であると言ってみたら、「何を、突拍子もないことを!」と思われるだろうか。しかし、実際にそういう解釈があるのである。
アメリカ人は、「奴隷制度」、つまり、黒人を奴隷として扱った負の歴史を「原罪」と認識している。そして、白人も黒人も差異がないという教義を広めることで、その罪を贖おうとしている。さて、その伝道者と言えば・・・
そう、リンカーンとキング牧師である。白人と黒人の平等という教義を広めるために尽力しながら、道半ばで銃弾に倒れたところも、人々の罪を背負って磔となったキリストと、奇しくも重なるではないか。
ほら、ワシントンのリンカーン・メモリアル、そこにはリンカーンの大きな像が鎮座しているが、このメモリアルはギリシャ神殿をなぞらえた設計となっている。
そして、裁判官は現代の神官である。最高裁判所の建物、こちらも神殿にも似た造りである。その中で、人々の訴えを聞いた神官は、いったん奥に引いて、そして神のご託宣を告げる。あの厳かな雰囲気は、儀式にたとえることも可能だろう。そして、裁判官の法衣は、神官の僧衣をかたどったものなのである。さらに、マイノリティの人権を保護するという役目を担う裁判所は、平等という教義を広めることにも尽力している。
こう聞けば、この議論があながち突拍子もないものではないことを、ご理解いただけるだろうか。
そう、アメリカ人は敬虔な民衆教徒である。そして、この国家という教義に、彼らは熱狂するのである。
そう考えると、アメリカの教義の主軸は、「白人と黒人の対立」ということになる。黒人への差別という罪を背負いながら、これをいかに乗り越えるかというのが、アメリカの大きな大きな軸なのである。
この間のブログで、日本人は協調型モデルを作るのに対して、アメリカ人は対立型モデルを作る、と書いた。プライバシーとパブリック、共和党と民主党、プロチョイスとプロライフ、二元的な対立構造というフレームワークが、アメリカでは非常に多い。確かに、このシンプルなフレームは美しく、どこが対立しているのかという論点を瞬時にとらえることができる。
しかし、フレームワークというのは、人の思考を「フレーム」する。この二元対立的なフレームをはめた途端に、「そうか、私は、右寄りなんだ」となり、そして「私は右、私は右」という発想は、その人の思考をもとよりもさらに右に寄せる可能性があるのである。共和党の候補者達が、自分の立場を「明確化」するため、保守を通り越して反動に傾くのも、そのひとつの表れだろう。闘う相手が明確になれば、その相手との差を強調するのは、基本的な策である。
そういう意味で、この二元的なフレームワークは、人々の発想を二極化しやすいフレームワークである。
そして、お気づきかもしれないが「白人と黒人の対立」というフレームは、この文化的土壌に非常に受け入れられやすいフレームワークなのである。鶏が先か、卵が先かという議論はさておいて、この「白人と黒人の対立」というのが、アメリカの中心的なドグマとなるのは、非常に自然だったのである。
人種問題というとき、アメリカでは、基本的に白人と黒人の対立を指す。ときとして、褐色系なども含めてみたりするが、東アジアとか南アジアとかそういう要素は好まれず、「白と黒」というシンプルな二元対立が、アメリカの思考に非常に馴染んでいるのである。そして、この二元対立的なフレームワークは、さらに相克を助長する可能性がある。
アメリカにいかにこのドグマが深く根付いているかを知ってから、私は「トランプ人気」を理解できる気がした。
KKKの元幹部からの支援を断らなかったというだけではない。彼の存在自体が白人至上主義の、ひとつの象徴なのである。彼の家族写真を見てみてほしい。妻から、息子、娘、そして息子の妻まで、背の高い金髪の一族がずらっと並ぶ光景は圧巻ですらある。この家族が、彼の価値観を如実に語っているのである。もはや、あえて口にする必要はない。彼の存在自体が、アメリカ人にひとつの「象徴」を発信し続けているのである。名門ジェフ・ブッシュがメキシコ系の妻を前面に出して、多様性をアピールしようとしたのとは対照的に、ユーゴスラビア出身のモデルである妻を横に置くことで、トランプは、白人「純血」を示しているのではないだろうか。
彼の存在自体が、「白と黒の対立」というアメリカの構造に、恐ろしいほどぴたりとはまるのである。
白人至上主義者たちは、彼の存在自体に熱狂するのだろう。いや、それだけではない。「良識的な市民」は彼の主張に眉をひそめる。そして、彼を否定することで、自分たちが奴隷の歴史という原罪を乗り越えて、今、平等という教義に一歩近づいているという充実感を感じることができるのである。賛成であろうと、反対であろうと、人々は、彼のことを話し続ける。彼を話題の中心にせざるを得ないのである。だって、「白と黒」というアメリカの主軸と、彼がぴったり重なるのだから。
トランプが(良い意味でも、悪い意味でも、)アメリカ全土をひきつけてやまない理由は、ここにあるのではないか、私は、そう思っている。
写真はトランプ・ファミリー。ある意味、「壮観」である。