ブログをなかなか更新できなくてごめんなさい。。。卒業の足音が聞こえるようになってから、論文やらテストやらレポートやらで、とても忙しい日々が続いています。日本で地震が起きたとのニュースにとても心配しているのですが、そちらはだいじょうぶでしょうか。
今日は、中絶について書いてみたいと思います。なぜなら、これは、私がアメリカに来た時からの探究課題のひとつだから。なぜ、中絶がこんなに社会問題になるのか。トランプが大統領になったら、中絶をしようとする女性には拷問をなんて言いかねないよねとか、テッド・クルズも中絶に絶対反対だとか。特に、初老に差し掛かった政治家たち、自分が中絶するわけでもなかろうし、「娘が・・・」っていう話でもない限り、そんなのはほっといてあげればよかろうに、というのが私の当初の気持ちだった。
しかし、中絶について勉強するうちに、これはひとつのアメリカのひとつの象徴ではないかと思い始めたのである。
「アメリカ人は、なんでも二元対立の構造として理解したがる」
これが私の感想である。「パブリック v プライバシー」、「共和党 v 民主党」、「親の権利 v 子供の福祉」。二つの何かが対立しているという構造が、とにかく大好きなのである。
そんなアメリカの中絶問題については、明確な対立構造がある。
「Pro-Choice(選択ってすばらしい!ビバ、女性の尊厳!!) v Pro-Life(命ってすばらしい!ビバ、胎児の命!!)」。
この二派が絶えることなき争いを繰り返している。「Pro-Life」派は恐ろしいことに、受胎した時点で「人間」だと主張する。彼らの主張によると、「十分に言葉も話せない、意志も伝達できない、そんな幼児と胎児の違いってなに?そう考えると、生まれた瞬間から人間だと、胎児と幼児に線引きするのはおかしい。発達しようとする力だけが人間を人間足らしめている。それならば、分化しようとする受精卵すら人間である」と。
さて、人間と動物の違いはどう説明されるんでしたっけ?と思わず聞き返したくなるが、これが彼らの主張である。だから、中絶は「殺人」なのである。自殺に失敗した妊婦が、殺人未遂罪で起訴されたなんて、驚きのニュースもある。妊娠14週で不幸にも脳死状態に陥った女性についても、子供が生まれてくるまで生命維持装置を外すことはできないのである。この場合、脳死はアメリカでは「人の死」だから、亡くなった妊婦は胎児を培養するための「器」になる。なんというか、SFストーリーのようで、想像するだにぞっとする光景である。
対する「Pro-Choice」派も、けっこうおそろしい。「女性の選択」を高らかに掲げるフェミニストたちからすると、胎児なんて「物」なのである。「自分の身体の一部なんだから、何をしようと私の勝手でしょ?」というわけで、23週以降になって母体外で生存可能性のある胎児だろうとなんだろうと、そんなの関係ないのである。たとえどれほど身勝手といわれようと、中絶は女性の選択の象徴、そしてそんな選択権を持った女性の尊厳のそんちょうなのである。自分の身体や性、母親になるかならないかの選択を女性の手にというのは、フェミニストたちの長年の戦いのテーマであり、この権利に対するこだわりは、彼らは特に強い。
この二つの派閥は、いわば南極と北極である。極端に分かれていて、間の主張は何もない。「Pro-Life派」からすると、中絶はどんな状況であろうと倫理的に悪なのである。「Pro-Choice派」からすると、中絶は常に善なのである。まさに、「白黒つけたがる」、アメリカ人はそういう人種なのだろうと思う。
授業で、中絶を経験した女性の体験談を読んだ。これがものすごく不自然である。
「Pro-Life派」が提出したストーリーによれば、中絶を経験した女性の深い悲しみと後悔が切々を書かれている。「Pro-Choice派」が提出したストーリーは、悲しみなんてひとかけらもないのである。今、社会で活躍する女性たちが、中絶のおかげで高校を続けられた、あれがなければ今の私なんてなかった、「中絶万歳」とバラ色の生活を語っている。何十人もの女性の体験談を読んだが、完全にこの二パターンしかないのである。これって、すっごく不自然!!
待って!「あのとき、出産したとしても子供を育てることは難しかった。自分の選択には満足している。だけれども、同時に深い喪失と悲しみを感じた」そういう話って、すっごい自然じゃない?そういう人間の二面的な複雑さって認めてもらえないの?
この「白黒つける」アメリカ文化に対して、日本には「グレーをグレーのまま受容する」土壌がある。
未成年のままの妊娠など中絶は「仕方のない」こととされるときがある。そして、そんな女性の悲しみを社会で共有して癒そうとする気持ちが「水子供養」の下地になっている。
胎児は「人未満、物以上の存在である」。そして、人か物かをはっきりさせなくても、大事な存在であることには変わりない。
そして、「女性の尊厳v胎児の生命」という対立構造で、この問題を理解したりしない。胎児と女性は一体であって、女性は胎児を守る存在のはずだし、胎児の痛みは女性の痛みなのである。胎児と女性の調和の中で、この問題は理解されているのである。
中絶問題には、なんでも「白黒つけたがる」「対立構造の中で理解したがる」アメリカの文化的土壌が関係している。それに対して、日本は「グレーを受容する」「調和の中で理解する」文化的な土壌がある。
どちらがよいという議論ではない。日本文化の場合には、胎児と女性は一体である、女性は胎児を守るべき存在であるという発想が母性につながり、すべての女性に母性を期待する、そういうステレオタイプにつながりかねない。「母親でなければ、女性として物足りない」というのもなんだかなと思う。
しかし、異なる文化を知ることは、自らの文化的土壌を見直すきっかけとなる。だからこそ、他の文化に対して、好奇心を持ってみたり、素直に、率直に、オープンマインドに観察することが大事なんだと思う。
写真はhttp://qz.com/520309/how-to-tell-whether-a-twitter-user-is-pro-choice-or-pro-life-without-reading-any-of-their-tweets/とhttps://www.google.com/search?q=pro+choice+pro+life&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjDmc6WtZPMAhXLJh4KHfeRDacQ_AUICCgC&biw=1280&bih=610#imgrc=nbeJhoaVQCfTgM%3A
のウェブサイトから。
最高裁の前で、“KEEP ABORTION SAFE AND LEGAL”「中絶を安全かつ合法に!」と運動する「Pro-Choice」派と、そのすぐ隣で“ABORTION KILLS A PERSON”「中絶は殺人」と運動する「Pro-Life」派。「Pro-Life v Pro-Choice」 の象徴的な縮図。