間が空いてしまって、ごめんなさい!今日は、アメリカの最高裁判事スカリアが死去したニュースについてです。
2月13日の朝に、アメリカの最高裁判事の一人である、スカリアが死去したというニュースが流れた。
民主党または共和党の大統領から指名を受ける最高裁の判事たちは、とても政治色が強く、それぞれに個性があって、アメリカではセレブリティにも引けを取らない人気者。特に30年以上、最高裁判事を務めたスカリアは、保守派最大の論客といっても過言ではなく、半端のない存在感を誇っていた。だからこそ、その死は、アメリカで大きなニュースとなっている。
9人の裁判官から構成される最高裁では、「多数意見」が判例となる。そして、「多数意見」にほぼ同調するものの、全く同じではないという裁判官が「補足意見」を、多数意見に真っ向から反対する裁判官が「反対意見」を書く。保守の共和党に任命されたケネディが、徐々にリベラルによりはじめてから、最高裁の9人の裁判官の中ではリベラルな論調が多数派となった。そうなると、必然的に、スカリアは「反対意見」にまわることが多くなっていた。
保守派の中で最大の論客である彼が、「多数意見」を書いたケース、「反対意見」を書いたケースを読むと、「アメリカの保守派の論調、その現在の位置づけ」が分かって、非常に興味深い。
まずは、「多数意見」のケースから。リベラル派が多くなった最高裁で、それでも彼が多数派を形成できる場合としては「表現の自由」があげられる。実際、彼は、表現の自由については、非常に重要な「多数意見」を数多く提供している。
ここでひとつ留意。アメリカの「保守派」というのは、日本の「保守派」とは、ずいぶん異なる。もともと「保守」というのは、既存の制度を前提として、それを守ろうとする人々のことを指すのだから、制度が変われば、「保守」の意味合いが変わってくるのも当然のことだろう。アメリカでいうところの「保守派」は、政府の干渉を最小限に抑えて、市民の自由を最大限に保証する。そして、市民が自ら自分の考えを表明して、政治に参画し、自分のこの手で家族や財産を守る、「政府からの自由」というのが基本的な考え方なのである。「力強い政府」を目指しているように見える安倍政権の「保守派」とは、だいぶ趣を異にする。
リベラルな判事が増えた最高裁ではスカリアが他の判事を説得して「多数意見」を構成できることは減ってきた。それでも、自分の意見を自由に表明して、政治に参加していくという「表現の自由」は、アメリカの「政府からの自由」の根幹であって、今でもスカリアの意見が、そのまま多数派の意見となるのである。
しかし、スカリアの「多数意見」もさることながら、彼の真骨頂は、やはり「反対意見」にある。クラスメイトと、一番好きなスカリアの意見を挙げていったけれど、やはり多くが口にしたのは反対意見だった。
<同性愛者の権利について>
同性愛者の自宅での性行為を刑罰の対象としていた法律を、「プライバシー」権の侵害であるため違憲とした判決について、彼は、「同性愛者による性行為が基本的人権だなんて、憲法のどこを読んでも書いていない!モラルを定める立法が許されないなら、売春だって、近親婚だって、重婚だって、もはや禁止することはできないのだ!!(そんなことはできないのだから、同じように同性愛者の性行為も認められない)」、と吠えた。さらに、同性愛者に対して特権を与えないことを明記したコロラド州の憲法が合衆国憲法に違反するとされた判決について、彼は、「そんなこと言うんだったら、複数婚(一夫多妻・多夫一妻)を禁止するユタ州の憲法だってとっくに違憲だ、多数意見の論理に従えば複数婚だってなんだって認めないといけなくなってしまう!」と、舌鋒鋭く批判した。
<男女の平等について>
女子禁制の軍人学校を違憲とする判決について、「9人の裁判官がそんな出過ぎたことをするなんて許しがたい。女子禁制とするか否かは、バージニア州の立法府に任せるべきだ」と批判した。
<中絶について>
中絶に親和的な判決についても、「合衆国憲法に『中絶の権利』なんてどこにも書いていない。多数意見は、今、憲法に『中絶の権利』という新たな一章を加えようとしているのか(憲法に書いていない権利を、勝手に作り出そうとしているのか)」と皮肉った。
こうやって、彼の反対意見を見ていくと、同性愛者や女性などのマイノリティに酷な意見が多い。ハーバードの学生たちは「その結論には賛成できない」ということが多かった。しかし、それでも彼の力強い理論に反論をするのは、ハーバードの学生といえども、至難の業だった。同性愛者の性行為を認めるなど、リベラルな多数意見にどれほど怒り狂って、激烈に批判して、彼一流の辛辣すぎるユーモアで皮肉ろうとも、スカリアの緻密な筆致は決して乱れることなく、「自分個人の感情的な意見」と「法律論」をごちゃまぜにして議論することは、決してなかったからである。
彼の主張の強さは一貫性にある。どのような場面においても、常に、「法律はその文章をそのままに読むべきである。裁判官の読みたいように読むべきでは決してない」というのか、彼の意見だった。同性愛者も、女性の平等も、中絶も、「時代が変わった現在の事情も考えて『プライバシー権』の範囲を拡大して・・・」という論調を、彼は最も忌み嫌った。「たった9人の最高裁判事の願いを、法律解釈に反映させてはいけない。それは『エリート主義』であって、『民主主義』に反する。法律を変える権利は我々にはない、民主主義の中に委ねられているのだ」というのが、彼の変わらぬ主張だったのである。
ニューヨークタイムズの記事の中で、スカリアのロー・クラークを務めた女性の記事が興味深かった。ロー・クラークというのは、最高裁判事の調査官であって、ロースクール卒業生の憧れのポストである。「『[男尊女卑的なイメージのある]スカリアのロー・クラークを、女性として務めるのってどう?』ってよく聞かれるけど、『男性のロー・クラークと全く変わらないわよ』って答えるの」、と彼女は言う。
「彼は、法律のもともとの意味を調査して、そのままに解釈してくれるロー・クラークを重用したわ。法律論の前では、個人としての好き嫌いも、男女差別も決してなかったわ」、と。
スカリアという保守派の巨人は、その法廷における意見も、そして個人としてのものの見方も、力強く一貫した人だったのだろう。
リベラルも保守も、スカリアの意見への賛否は全く別にして、偉大な個人の死を、アメリカ中で悼んだのである。民主党のオバマ大統領も「判事スカリアへの敬意と哀悼の意を示すために、ホワイトハウスに国旗を掲げることを指示した」とスピーチした。写真は、その国旗が掲げられたホワイトハウス。