はじめて海外旅行をした幼いころ、母は私にこう教えた。「海外では、本当に絶対にあなたが悪い場合でなければ、謝ってはいけない」と。

ならば、どういうときになら謝ってもいいのかと尋ねると、母はこういった。

「あなたが空港でふざけて走り回ってるとするでしょ、そして、誰かにぶつかってしまった」謝るでしょ?「ダメ」

「そして、その誰かが持っていたトランクが、衝撃で地面に落ちた」それは、謝るでしょ、普通に考えて?「まだダメ」

「それで、そのトランクの中に、偶然にも非常に高価な壺が入っていて、それが割れてしまった場合に、はじめて謝るの」

「へー、そういうものなんだ」

高価な壺が壊れてしまったならば、それこそ、訴訟になる可能性があるし、むしろ非を認めないほうがいいのではと思うので、母の言葉の合理性は今考えると眉唾ものである。しかし、幼い私は、母の言葉を真剣に信じた。

そして、はじめての海外旅行先のカナダで、満員のエレベータに押し込められた私は、ぎゅーぎゅーの押し合いの中で、現地の大人が、私に対して「Sorry」とつぶやくのを耳にして、異常な恐怖感を覚えたものだった。

「どうしてこの人は、こんな簡単なことで謝るのだろう?私は、今、なにかとてつもなく悪いことをされているのだろうか」

長じて、アメリカに留学することになり、私は、人にぶつかったときの「Sorry」と「I am sorry」は全く違うものであると、身をもって知らされた。電車や街頭などの人ごみの中で譲り合い、しきりに「Sorry」と口にする彼らは、しかし、いざとなると絶対に謝らないのだ。すべては些細なことである。


たとえば、図書館の本を期限までに返さなかったことを理由として罰金を科すとの連絡があったため、私が図書館に赴いた時のこと。前日に、確かに返却した記憶があるので、おそらく図書館側の手違いだろうと説明する。係員が確認したところ、本はすでに戻っていたとのこと。そこで、係員の彼女は、罰金の取消手続きをして、私にこう言う。

You all set(これで手続きは終わりよ!)」

Thanks」弱気な私は、なんとお礼を言ってしまった。

Your Welcome」満面の笑顔で答える彼女を見ながら、なんとなく腑に落ちない。日本ならば当然期待できたであろう謝罪の言葉が、一度たりともないのである。


こういうこともあった。いつものように地下鉄で帰ろうとしていると、途中の駅で突然の停車。そして、「この電車の終点はここです」という車内アナウンス。どうやら、地下鉄が止まっており、これ以上先には進まないようなのだ。仕方がないので、代わりのバスなどはないのかと係員に尋ねる。

Walk!」の一言。謝罪は一切なし。


別に「謝れ」というつもりはさらさらないのだが、「ごめんなさいね」という言葉は、不合理を強いられた、私の嫌な気持ちを、いつも慰めてくれたものだった。日本では当然に期待できるこの慰めがないと、このイライラをどこに持っていったらいいのだか。。。

アメリカ人が謝らない理由について、訴訟文化だからという説明は単純すぎると私は思っている。図書館の罰金ごときで、さすがに訴訟なんてことはないからだ。私が思いつく説明は、今のところ二つである。

ひとつめは、アメリカでは組織への帰属意識が薄く、個人としてのパフォーマンスを重視しているから。図書館の手続きでミスをしたのは自分ではなくて同僚である。地下鉄になんらかの不具合があったとしても、それは自分個人のミスではない。自分が帰属する組織を代表しているという意識のもとに、個人には非がなくても謝罪する日本とは、根本的に文化が違うのではないかと思う。

ふたつめは、人間関係が基本的にはフラットで、その時々で新しく人間関係を構築する必要があるから。謝罪することは、相手よりも下の不利益なポジションを、自らあえて取りに行くことを意味するので、するべきではない。なんか、こないだノートを貸してほしいと友達に頼まれて、「遅くなってごめんね」と日本のノ リで言ったら、それ以降、基本的には私がお願いされている立場のはずなのに、なんかお願いしている立場の人みたいになてしまった。こういうことって、きっ とよくあるのだろうと思った。


謝罪も潤滑油なんだから、あんまり頑なに謝らないのはよくないよなーと思っていた矢先、先日、日本に帰ったときのこと。「マイナンバー」のことで担当部局に電話した私は、対応に違和感を覚えた。電話口での応対が、もう本当に、はなっから「謝罪モード」なのだ。私は、なんら文句を言うために電話したわけではなく、高圧的な口調でもなく(と思います)、たた純粋に問い合わせたいことがあったのである。それなのに、私が一言発する前から、「すみません」と言ってくるこの女性。おそらく、マイナンバーに対する問い合わせが増えることを理由に、緊急動員された人なのだろう。年金について電話した時も、同じことを思ったのだけど、どういう問い合わせかがはっきりする前から「すみません」って??なぜ??

なんか、ここまでくると、私はとてつもなく不気味な感じがしてしまった。電話口のこの女性は、正直、自分が何に対して謝っているかなんてわからないまま、ただ、低姿勢であることを示して、電話の向こうの誰かのご機嫌をとるためだけに謝っているのだ。でも、だれに対して、何を対象にして謝っているのかよくわからないまま、とりあえず謝るってなんか変じゃない?


思えば、純粋に「謝る姿を見せる」ことを目的とする謝罪会見っていうのは、けっこうあるような気がしてくる。誰かに何かを謝罪することが目的でないならば、 もはや誰のためでもなく、単なる自己保身ではないかと思えてくる。しかしながら、これは日本に限ったことではないが、純粋に「謝る姿を見せられた」ことを評価してしまう土壌があるのである。トヨタのプリウスリコール会見で、創業家出身の豊田社長が御自らお出ましになって、沈痛な面持ちで深々と頭を下げると、なんとなく批判も収まっていく。マクドナルドは、トップのカサノバ社長が出てこないとはけしからん!みたいな。(まあ、会見の際の説明が要領を得ていたかどうかというの点も、もちろんありますが。)


謝り方が問題ではないとはもちろん言わないけれど、だれに対して何を謝っているかが一番の重大事!それがはっきりしないまま、むやみに「I am sorry」と頭を下げるべきではないのではというのが、結論です。


ところで、私自身、最近、なんか謝ることあったかなと考えていたのですが、うーん、大学側に提出した写真が「盛りすぎ!誰かわからない!」というコメントとともに、突き返されてしまったことでしょうか。念のため、加工前と後を添付します。調子に乗ってやりすぎてしまって、もはや、人間的ですらないものを作り上げてしまって、ごめんなさい。

うーん、やっぱり、だれに何を謝っているのかよくわからない謝罪って、私自身もよくやっちゃうかも。

ブログ160114①ブログ160114②