「男性と平等でありたいなんて求める女性は、野心が足りないのよ(Women who seek to be equal with men lack ambition.)」マリリン・モンローの名言である。

 

この言葉で、私は、時節柄、大統領選を控えたヒラリークリントンを思い出した。「ファースト・レディ」として、夫のビル・クリントンを通して政策にも影響を 及ぼし、さらには、夫よりもある意味高く評価された。これが野心的な「女性のゴール」でなくて、何と呼ぶべきだろう。しかし、ヒラリーにとって、それは決 して本意ではなかった。8年前に「大統領夫人」ではなくて「大統領」を目指すことを表明した彼女は、大本命と言われながらも、すい星のごとく現れたオバマの前で苦戦し、選挙戦の終盤には涙まで見せて、それでも敗北を喫して、手痛い打撃を味わったのである。

 

しかし、そのライバルであるオバマを国務長官として支えながら、淡々と8年間の長きを待った。民主党の候補者たちが、次々と出馬を表明する中、ヒラリーはなかなか決意を示さなかった。負け知らずのエリートにとって8年前の傷はさすがに深く、もはや同じ争いは精神的に耐えられないのではないだろうかと、人々がいぶかしむ中、満を持して出馬を表明。メール問題で序盤から苦戦を強いられ、夫の不倫相手モニカ・ルインスキが表舞台に再び登場するなど、精神的に追い詰められたとしても、彼女は不撓不屈の意志力で、上を目指すことをやめないのである。これを野心と呼ばずして、なんと呼ぶべきなのだろうか。確かに、ヒラ リー・クリントンには政治家として実現すべき政策があるだろうが、彼女を根本的に支えているのは、この野心だと思うのである。

 

そういう意味で、全く対照的に見えるマリリン・モンローとヒラリー・クリントンはよく似ていることに気づく。決して恵まれた生まれではなかった二人の少女は、その身の丈にありあまる「野心」によって、成り上がったのだと思う。自分の野心のためなら男たちを「踏み台」にすることなんてなんとも思わない。むしろ、それだけのスケールの大きな野望のためなら、喜んで身を投げ出す男たちがいただろう。考えてみてほしい。天下統一を目指した信長の野望の前に、家臣だって恋人だって、身を尽くさずにはいられなかったのである。「時の流れに身を任せ」の中で、「あなたの色に染められ」て「きれいになれたそれだけで」、 なんと「命さえいらない」と思う女たちがいるのである。男女を入れ替えれば、どうせ騎馬に徹するなら、できるだけ強い将を乗せたいと願うのは、きわめて自然なことである。

 

Boys, be ambitious 少年よ、大志を抱け」という言葉をクラークが残したのは、19世紀の終わり。しかし、マリリン・モンローとヒラリー・クリントンはこう教えてくれた、「girls」だって、果てない「ambition」があるのだと。

 

マリリン・モンローとヒラリー・クリントン、フェミニンな野心とマッチョな野心、どちが優れているなんて評価するつもりは、私には毛頭ない。ただ、どちらの野心も必ず等しく評価されるべきだと思うのである。そういう意味では、今、ヒラリーは「女の子」が持つべき「野心」の選択肢を広げようとしている。

8年前と同じ、アイオワ州の民主党候補の指名選で、大統領選挙は本格的に幕を開ける。8年前にヒラリーがまさかの3位に沈み、失意の底に落ちたあのアイオワ州の指名選である。8年越しの野心の行方から、私たちは目をそらすことができない。