最近、女性の活用の議論が華やかですが、今日は、女性を「平等に扱うこと」について、フェミニストたちの歴史的な議論を書いていきたいと思います。

なぜなら、女性を平等に扱うというときに、この「平等」がいったいどうすることを指すのかっていうのは、実は議論がずれててわかりにくいから。最近のニュースなんかを見てても、ここの目線が統一されていないんじゃないかと思うので。

 

まず、1)同一型と2)非同一型に大分類から。

 

ひとつめの1)同一型というのは、女性は機会さえ与えれば完全に男性と同じように働けるはずだという大前提に立つ。つまり、男性と女性はなんら違いがないというわけである。

同一型の中には二つの種類があって、A)男性型モデルとB)中立型モデルというもの。

 

このうち、A)男性型モデルというのは、女性は完全に男性と同じように働けるはずというモデルで、社会で「男性と同じように」活躍したい女性に対しては、「ならば男性と同じように働くこと」を求める。そして、「名誉男性」と呼ばれる華麗な称号を持つ女性たちが生まれるわけである。

それに対して、B)中立型モデルというのは、男性であれ女性であれ、似たような状況にある人たちには同じような扱いをというもの。これは、要するに、女性が一家の大黒柱として会社で働いて男性が専業主夫になったっていいじゃない。この場合には、性別にかかわらず「一家の大黒柱」「家事専業」って扱いにしてあげましょうよって いうもの。男性だからって、育児休暇が取りにくいのはおかしいし、「父親参観日」以外の授業参観日に父親が行って何か悪い、と主張する。これによって、女 性のマッチョな側面を解放すると同時に、男性のフェミニンな側面を解放したと評価される。

 

ふたつめは2)非同一型モデルから。これはA)優遇措置モデル、B)適応モデル、C)受容モデル、D)権限移譲モデルにわかれる。男女は基本的に違いがあるという前提に立つ。

 

このうち、A)優遇措置モデルというのは、女性は子供を産み育てる性別であることを考慮して、優遇措置を設けるべきであるという考え方。ヨーロッパでは結構ありうる考え方なのだろうけど、アメリカ人はこういう優遇措置を、女性であれ人種であれ、歴史的に嫌悪している。

それから、D)権限移譲モデルというのは、そもそも男女の違いというのは、男性によって作り出されたものである。「従順で、フェミニンで、癒し系で、かわいい恋人で、理想の奥さんで・・・」っていう勝手な女性像が男性側の都合で作り出されて、女性はそれに縛られてしまっている。そして、男性が支配する側で、女性がその支配に従う側になってしまっている。かくなる上は、男性が独占している権力を、女性に委譲してもらって、世界全体を変えなくてはっていう思想で、ラディカル過ぎて、今ではあまり受け入れられていない。

 

それから、B)適応モデルというのは、女性と男性の違いのうち、生物学的な違いは考慮しましょうというもの。代表的なのは、妊娠・出産ですね。これは男性と女性の生物学的な違いでしょう、と。だから、妊娠・出産して育休を取った女性について、そうではない社員と同じように扱って、給料・昇進を含む待遇面でいかなる意味で も不利益に扱わないようにしましょう、と。

それに対して、C)受容モデルというのは、女性と男性の違いのうち、生物学的なもののみならず文化的な違いも考慮しましょうというもの。妊娠・出産を全く経験してなくたって、社会で働く女性の平均賃金って実は男性よりも低いんじゃない?それって、もしかして、「女性的な仕事」って「男性的な仕事」よりも社会的地位が低いからじゃない?たとえば、「一般職」「総合職」ってあって、「一般職」は女性的、「総合職」は男性的と考えられているとする。この受容モデルを主張するフェミニストたちは、「職業における男女の役割分担」自体は「OK」という。問題はそのあと。「女性的な仕事」も「男性的な仕事」と同じだけの評価をして、給料・昇進を含めて待遇面で「平等」に扱うべきであるというのが、この派のフェミニストの主張なのである。

「だっておかしいじゃない。一般職の妻の方が給料が安いなら、当然妻が仕事をやめて家で子守をするべきってことになるじゃない。それって不平等」というわけである。

 

どの主張が現実的かはともかくとして、男女の平等を主張する場合には、その論者が「平等」という言葉をどこまで踏み込んで使っているかを意識するべきだし、自分が議論する場合もちろん上記を踏まえるべきだと思う。

 

そんな議論自体はなかなか興味深いのだけれど、そんな議論をするために、授業のたびにこれだけの英語の資料を読まされるのだからたまったものではない。ちょっと愚痴をいいたいがためにここまで書いたところ(笑)。

ブログ151207