更新が遅れてしまってすみません。。
ボストンはすっかり秋になって、今が一番きれいな季節です。終わりゆく秋を楽しみつつ、冬の訪れの気配に怖さを感じています。
さて、私がハーバードでとっている授業の中で「子どもの貧困問題」に関するものがあります。その授業を通して、子供の貧困問題について考えさせられるようになったので、その感想をブログにまとめてみようと思います。
子供の貧困問題に関する取り組みというのは、要するに不平等を是正するための闘いなのだと思う。さまざまな取り組みがありますが、「小学校に入る前の年齢の 子供たち」「小学校に通う年齢の子供たち」「小学校を卒業した年齢の子供たち」と対象になる子供たちの年齢で分けたうえで考えてみたい。
まず、「小学校に入る前の子供たち」に対しては、貧困家庭を含めてすべての子供たちに質の高い教育を提供しようという試みがある。
貧困家庭の子供たちという のは、そうでない子供たちに比べて語彙の量や質に明らかな開きがあるとのこと。知っている語彙も少ないし、「あれやれ、これやるな」って語彙ばかりで、自分の感情を豊かに表現するような語彙を知らないから、それを自らの力で学べるような質の高い教育を提供しようというプロジェクトである。色の名前を学んだり、レストランに行って料理の名前を学んだり、自分の学んだことを隣の子に教えたり、質の高いプログラムを提供して、子供たちの語彙がどんどん増えていって、それが自信とやる気につながって、笑顔がきらきらしてくるサイクルは、見ていてこちらまできらきらした気持ちになる。
次に、「小学校に通う年齢の子供たち」に対しては、「教育の平等」を実現しようという教育改革の試みがある。
義務教育は平等に提供されているといっても、貧困地域とそれ以外の地域で学校の質には明らかな差があるとのこと。貧困地域の子供たちは、教師の質も保証されてなくて、勉強をしようにも教科書がないし、 スポーツをしようにも器具とか壊れてて使えないし、トイレすら満足に使える状態にはない。勉強をできる環境が整っていないので、それを是正して教育に対して平等にアクセスできるようにしたいというプロジェクトである。「教育改革を支持します。私にも教育を。なぜなら、私にはその価値があるから」全国テストの成績が悪くて、勉強ができないとされていた子は、勉強ができないのではなくて勉強をできる環境になかっただけと知って、そう言って微笑む。
最後に、「小学校を卒業した年齢の子供たち」に対しては、銃を使っての衝動的な殺人を防ぐための試みがある。
黒人の少女が、ギャング同士の抗争に巻き込まれ て、同じく黒人の少年の銃によって亡くなるなんていう悲劇が現実に起きている。このとき、銃を撃った少年というのが悪者で、だれが見てもそれははっきりしていて異論の余地がない、そう言い切れるほど社会は単純ではないというわけである。貧困地域で育った少年たちは、日常的な暴力と恐怖にさらされている。学校では「けんかはよくない」と習うけれど、今日のけんかを避けてランチを譲れば、明日にはジャケットを取られ、1週間後にはiPhoneを取られている。貧困家庭においては、取られたものをもう一度買うすべはない。そういう環境の中で生き抜く少年たちは、思考する前の条件反射的に行動する傾向があることが、統計学的に一定程度証明されている。だから、この反射能力を弱めるプロジェクトを少年たちに課すのである。このプロジェクトに対してはもちろん批判もある。そういう反射条件的な判断を強いる社会の方に本質的な問題があるのに、社会を変えるのではなくて、少年の反射条件的傾向を変えるだけ というのは、問題の本質的な解決につながらないのではないかと。しかし、少年が殺人事件に走るのを何とか瀬戸際で踏みとどまらせようという切迫感の中でプロジェクトに携わっている人たちにとっては、悠長な正論は「絵に描いた餅」に等しいのだろう。
子供たちの年齢が上がるにしたがって、不平等の程度は大きくなり、子供たちの非行の程度もひどくなり、プロジェクトの切迫感は増していく。「小学校に上がる時点で貧困家庭の子供たちはそれ以外の子供たちとの間で大きな差をつけられている。そしてその差は決して埋まることなく、延々と拡大していくのである。」 という言葉を思い出す。貧困家庭の子供たちは、小学校に上がった時点で「トラブルメーカー」というレッテルを貼られ、自信を持つ機会はなく、小学校からドロップアウトし、負のスパイラルにはまりこみ、ほかの子たちとの差は年を追うごとに広がっていくばかりになってしまう。小学校に上がる前や、小学生に対して、社会の不平等に正面から取り組んでいた教育改革も、年を追うにしたがって、そこに正面から取り組むことは難しくなり、殺人に走る子供たちを止めるという、もっとも切迫した問題に刹那的に取り組まざるを得なくなる。
そう考えると、世の中はおそらくとても不平等なのだろうと思う。アメリカは日本よりもさらに不平等の度合いが大きいように思えるが、日本だって十分に不平等だったのだろう。自分がこの手で得てきたものは、すべて自分自身の努力の結果であると信じてきた私も、ここにきて、自分の土台が揺らいでくるのを確かに感 じる。アメリカに来たとき、みんなが普通にこなせていることが、英語がわからない私には、とてもとても難しかった。授業で話されていることがわからなかったし、だからって質問もできないし、自分の意見を説明することもできない。自分一人だけが海抜以下から山に登ろうとして、海の底でもがいているかのような。。。そして、なんていうか、「ああ、たぶん、きっと今までもずっとそうだったのだろう」と思った。スタートラインからよーいどんって競争して、 勝ってきたって、私はそう信じてきたけど、そうじゃなかったんだなって。スタートラインってたぶん人それぞれで、私より後ろからスタートした人もきっといたのだろうって。私は自分に有利な競争で、それに勝って満足して、そしてその競争が自分に有利な土俵であることに気づかなかったのだろうって。
ハーバードのロースクールを出て、大手ローファームに入ることなく、NGOなどで子供の貧困問題に取り組む人たちがいる。そういうひとたちの一人がハーバードの学生に対して、「おそらく君たちには義務があるんだよ。社会から大きな投資を受けてきた人たちは、それを何らかの形で社会に還元する義務があるんだ」と言っていたけれど、んー、なんとなく、今なら素直にうなづける気がするなーと、最近、思うようになりました!